日本を寿ぐ: 九つの講演

最近はつまらない読書が続いた。先ほど紹介した本もそうだったが、他には例えば『竜の棺』。随分古い本である。2巻目の途中で投げ出したので全貌は分からないが、日本神話を含む文明の創世に纏わる謎を主人公一団が解き明かすというミステリー(?)であり、スケールの大きさはこのジャンルでは他に類がない。「神」にまつわる話である。問題は、謎を解いていく主人公を、彼の仲間達がひたすら褒め称える点。「どうしてそんな事を思いつけるんですか」、「どうして学者にならなかったのですか」、彼らの発言の大半はこの類である。主人公の語りにも大した根拠は無く、(あるいは根拠は省略されていて)、多くはただの思い込みに過ぎない(と読める)。「トンデモ説」の下らなさを楽しむラノベなのでこれでいいのかもしれないが、読んでいて気持ち悪くなってしまった。

この気持ち悪さには覚えがあり、何だろうと探して思い当たったのがアレ。日本の文化を褒め称える系のバラエティ番組とyoutubeの動画。自分の知っているものが評価されるので自尊心が気持ちよく持ち上げられる。それゆえ最初の内はそれなりに面白く観られるが、そのうち我に返るのか、気持ち悪さを覚えるようになる。気持ち悪いというのは、こんなものを楽しいと感じた自身に対してと、視聴者はそういうものが好きだろうと見積もる(当たっているのだが)製作者への嫌悪感である。製作者の本心であれば猶更気持ち悪い。こういうものを楽しいと感じる傾向が日本人に強いのかどうかは分からないが、根強く残る或る種の「島国根性」が作用している気はする。上の本も含め、どれにも共通するのは思い込みからくる視野の狭さだと思う。国際感覚(平衡感覚)の欠如と言ってもいい。思い込みで生きているような僕が言うのもアレなのだが。

そうしたつまらない経験の後に表題書を読んで最初に感じたのが「ホッとする」感覚であった。ドナルド・キーン氏はバランス感覚が良い。日本びいきであるという事と日本に心酔すること(上の例で言う、日本文化を褒め称える行為)はハッキリと異なる。日本文学者であり、日本びいきであった代表的日本人の彼の言説には、日本文化の特徴を、西洋文化と比較して優れた点も劣る点も含めて指摘してくれる平衡感が感じ取れ、それゆえ安心して読むことができる。本書は彼が晩年に行った一般聴衆向けの講演集なので、特定の対象に対する専門的な深い考察は無く、気楽に読むことができる。

テーマはどれも面白いものであるが、ここで紹介すべきは第一章目の「日本文化の国際性」。1993年に姫路で開かれた講演会の収録である。日本は古代より国際色に溢れた文化を育んできた。そして多くの文物も海外へ輸出されてきた。「島国根性」という国粋主義が生まれるのは幕末に於いてであり、逆に明治時代には鹿鳴館が代表するように西洋への極度な傾倒が特徴となる。このときの西洋文化への盲目的な追従から、「日本は猿まねの国」という評判が定着する。戦後の日本はこの悪評を払拭することに力を注いできたと言ってもいいと思う(これは僕の思い込み)。今も根強く残る「日本は神秘の国だ」という主張はこのキャンペーンの一環であろう。

ラフカディオ・ハーンもその様な主張を書いている。ただしそれは、「日本人は逆さまに喋り、逆さまに書き、逆さまに読む」と彼が書いていることからも分かるように、彼の無知・思い込み・国際感覚の欠如から来ている。因みに先の言葉は、日本語は品詞の並べ方が英語と反対であり、右から左に書き、本の綴り方も逆になることを言っている。ラフカディオ・ハーンがどうして日本人に愛されているか理由が分からないとキーン氏は書いているが、僕も同意見である。恐らく多くは思い込みに過ぎないのだろう。ラフカディオ・ハーンのつまらなさは彼の本を読めばわかる。

日本文化に「神秘性」などというものはない。これは何処の文化も同様である。日本語は日本人がそう思い込んでいる程には難しくなく(話し言葉に限ればむしろ簡単な方だろうと思う)、日本人は日本人がそう考えたがる程には親切でも礼儀正しくもなく(そもそも礼儀は余計な面倒を避けるための形式である)、日本食も今となっては、未だにそう思い込む人がいるように特殊で普通の外国人は食べられないようなものでもない。好き嫌いはあるだろうが。特殊であるという思い込みと、そう思い込みたい気持ちが精神的な国際化を邪魔している。日本も含めて何処の文化にも其々の特徴があり、それらを自国の文化と同列に尊重することが国際性の意味するところである。こういうことを、キーン氏は日本を題材に多くの著書を通して教えてくれる。