バイアスとは何か

先ほど電車の中でパラパラと読み終り、本書について感じたことを走り書きする。後に追記するかもしれないが、十中八九はこのままほったらかしになると思う。こんな前置きをするのは、セルフ・ハンディキャッピング(自分の見せ方にバイアスをかける方法の一つ)である。

今月はちくま学芸文庫からも講談社学術文庫からも読みたい新刊が無くて、仕方なしにちくま新書を当ってみた。今月の新刊の中で目に留まったのが本書。訳の分からないタイトルである。『バイアスとは何か』というが、「バイアス」はバイアスだろう、他に何があるのか、と不思議に思ってちょっと捲ってみると、何のことは無い、「認知バイアス」に関する本だった。因みに、「バイアス」とは「偏り、傾斜」程度の意味である。まともな頭のある人なら、「偏りとは何か」と凡そ自明なことを問われて、気にならない人はいないだろう。或いはタイトルの正当性に疑問を持つに違いない。以前youtubeで、『(爬虫類の代表的ペット種名がここに入る)のメリットとデメリット』という、恐らく言葉の意味的に成立していない(言わんとしていることは理解できる)タイトルの動画を見つけて呆れたことがあるのだが、それと同種の間抜けさを見つけた気分だった。ちょっと大げさに書いているが、こう感じる僕は正しいと思い込む傾向、これが「自己中心的公正バイアス」というやつだ。

タイトルについて一つフォローしておくと、本書で取り扱われるのは認知バイアスだけではないので、大雑把に「バイアス」に纏めたと思われる。少し怪しいと思うのは、「バイアス」の定義として「認知バイアス」がのみ解説されている点。このような書き方をすれば、余り物を知らない人などは「バイアス」即ち「認知バイアス」と理解してしまわないだろうか。気を付けてもらいたいものである。僕の「自己中心的公正バイアス」はまだ継続している。

認知バイアスに関しては最近テレビやその他の様々なメディアで目にする機会が増えたので気になる話題ではあった。認知バイアスは僕たちが世界(自信を含む)を認識する際の、進化的に適した仕方で獲得してきた歪みである。即ち進化的に言えば、バイアスは無い。例えば異人種間・異文化間の偏見(偏見と認知バイアスは厳密にいうと別物ではあるが)は抱くのが自然なのだ。それが人間性というものである。問題は、ここ最近(精々ほんの一万年程度?)の人類社会に於いては、それ迄の数百万年に渡って獲得してきた人間性に修正が迫られる事態が出来してきたことだ。認知バイアスは僕たちの体に組み込まれた形質なので、これを簡単に無くすことはできない。そういう偏りがある、ということを正しく認識することが大切である。まるで前から知っていたかのように書いているが、これは「後知恵バイアス」という。

本書の内容に関して言えば、僕が知らないことも沢山書いてあって為になった。認知バイアスを裏付ける実験が幾つか紹介されており、なかなか楽しい。こう書く背後にも何かのバイアスがあるのだが、名称はわすれた。思った以上に長くなったので、これでおしまい。