愛蘭土紀行

少し前に、『日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』というタイトルの本を書店で見た。今は読みたいものが積み重なっていて手が出せないが、ちょっと気になったのでその内に読む本のリストに入れた。そう言われてみると論文で〈です・ます〉調は不自然な印象を受ける。教科書や硬い内容を取り扱った本でも、〈です・ます〉調で書かれていると何だか読みづらい、というか気が抜ける(と思うこともある)。文体と内容が不調和している様に感じるからだろうか。この本を読んで答えを知る前に先ず、以下僕なりの回答をでっち上げてみた。決して鵜呑みにしないで頂きたい。

丁寧語である〈です・ます〉口調は書き手と読み手との関係性を前提とする、または生み出す。それゆえ読み手は提示される内容に書き手というフィルターを意識せざるを得ず、内容の客観性がボヤける。通常、論文が取り扱う内容にはある程度の普遍性、視点の所在に頼らないという意味での客観性や再現性が重要視されるので、〈です・ます〉と相性が良くないのだろう。要は「私」と「あなた(方)」の存在が邪魔なのである。これが講演や発表の場であれば、語り手と聴衆との関係性が前提として動かし難く存在するので、〈です・ます〉調は自然であり、そうでない方が返って不自然に感じる(だろうと思う)。講演内容を〈です・ます〉調のまま本にしたものに少し読みにくさを感じるのも、同様にTPO的なズレが原因だろう。以上の事がらが当たっているかどうかはともかくとして、その本の方ではできれば別角度からの考察があれば嬉しい。

本題。他に読みたいものが貯まっているにも関わらず、寝床でちょとだけ見てみようと読み始めて毎晩のように手に取ってしまったのが表題書であった。著者一行がアイルランド島に到着するのはようやく上巻の後半に入ってからであり、それまで何が書いてあるかといえば一行が経由したロンドンとリバプールにまつわる余談。その合間に旅が進む恰好である。特にリバプールはビートルズや大聖堂など話題に尽きない。三角貿易(黒人奴隷貿易)の拠点でもあった。著者の余談はこの様なエッセイにおいて益々歯切れが良く、読んでいて心地良い。幾分か偏見を感じないことも無いが、個人の知識には限りがあるし、それを臆せず書くからこその気持ち良さなのだろう。

アイルランドはスウィフト、イェイツやジョイスを輩出した文学国である。英語が公用語ではあるが、ゴールウェイ(島の西岸の都市)でゲール語を専攻する日本人大学院生から著者が聞いた話では、「しばしば独特の言い回しの英語を使います。おそらくアイルランド人には潜在的にゲール語(アイルランド語)が眠っていて、それが時々目を覚まして、実に愉快な英語の言い回しをする様になるのでしょう」とあり、こうした潜在性文化が文学性を触発するのかも知れない。ちなみに、著者はジョイスの『ユリシーズ』を読んで全く理解できなかったそうである。僕も集英社から新訳が出た時(90年代後半?)に1巻だけ読んでみて、以降は読むのを止めた。『フィネガンズウェイク』などは数十ページも進まなかった。国境を越える文学は沢山あるけれど、ある種の文学はそれが育つ土壌(文化風習とか知識とか)に強く依存する固有種の様なもので、他所(別言語)に持ち出すことは難しいのだ、と以来納得している。

本書に書いてあったことかどうか忘れてしまったけど、伝説(ダナン神話だったかな?)によればアイルランド人へは4度にわたって移住があった。因みに最初の移民がノアの洪水後とされるのはキリスト教修道士によって改変されたからである。1度目と2度目は疫病か何かで島から退散し、3度目の移住民(人?)は、のちに遥かイベリア半島からやって来た人々との戦いに敗れて地下世界へと逃げ、妖精になった。この4度目の移住民が後のアイルランド人の祖先とされる。この様にアイルランドは妖精の本場(?)であり、上に挙げた本などはラフカディオ・ハーン『怪談』のアイルランド版とも言える伝承集である。そうそう、ラフカディオの父親もアイルランド出身であった。その影響を彼は受けたかどうか。上の本は読んだのが随分昔の事なので内容はあまり覚えていないのだが、それほど面白いものでは無かったという印象だけがある。今読めば違うかも知れないと思い、つい注文してしまった。

Audibleの方は最近は “Poison Like No Other” を聴いていた。プラスチック等の石油合成物が人体と環境に及ぼす危険性について警鐘を鳴らした内容であり、とても興味深い話だった。人類がこれまでに廃棄したプラスチックの総重量は現在地球上に存在する全動物に相当する(聞き間違いでなければ.一応断っておくと、動物とはここでは分類上の動物界に所属する生物たちのこと)。これらが砕けたマイクロプラスチックはあらゆる所に蔓延しているとはいろんな所で聞く話だが、マイクロがさらに細かく砕けたナノプラスチックというものも、観測計器の性能が上がって検出されているらしい。このサイズになると空気中を漂うほど十分小さく、ペットボトル飲料内や大気中を含めてこれが存在しない場所は地球上には最早存在しないのかも知れない。これに晒されてどう困るかが問題なのだけれど、それは本書を読んで(聴いて)貰いたい。プラスチック化合物の全てを自然素材(綿や土など)に置き換えるにしても需要を賄うための土地が到底足りず、何より残留物(レガシープラスチック)をどうするかの問題もあり、なかなか難しい課題であるそうな。そうして身の回りをよくよく眺めてみると、衣類も含めて(僕は汗かきなので何時も化繊素材を愛用している)、プラスチック化合物を含まない物を探す方が難しい。