チャンドス卿の手紙

『言葉の魂の哲学』で知った作品が書店で目に留まったので読んでみた。以下、印象が言葉に纏まらないまま書く。

たった30ページに満たない短編で、チャンドス卿がフランシス・ベーコンに宛てた一通の手紙からなる。其処には、自身に起こっている或る現象のために本が書けなくなったことが綴られる。その現象とは、『言葉の魂の哲学』でも取り上げられたように、ある種のゲシュタルト崩壊であった。「物事を単純化する習慣の目で見ることができなくなった。すべてが解体して部分に分かれ、その部分が解体して、...ひとつの概念ではなにひとつカバーできなくなったのです。ひとつひとつの言葉が私の周りに漂ていました ... それらは休みなく回転しており、それらを突き抜けると、そこは空。」

この状態から逃れようとしたチャンドス卿であるが、それ以前にはなかった類の生き生きとした嬉しい瞬間も経験する。「如雨露であり、畑に置き去りにされた馬鍬であり、日向ぼっこをしている犬であり、...」が「私にとって崇高で感動的な相貌を帯びることがある」と言う。「取るに足りない如雨露とその水とゲンゴロウとの組み合わせを目の前にして、無限を目の前にしたきになって旋律を覚えるのです。」

言葉の意味する枠組みや概念は形を失い、言葉を通すと全てが空虚に感じられる一方、そうした瞬間には「沸騰し、泡立ち、キラキラ光りを発しているかのようです。全体としてそれは一種の、熱を帯びた思考です。言葉より直接的で、流動的で、燃えやすい物質による思考なのです」と続ける。事物の本質がどういうものであるかは知らないが、言葉では捉えられないということであろうか。

ホフマンスタールは戯曲や歌劇作家であるそうだ。演劇や歌劇の身体の動きや体験などに言葉では表現できない瞬間瞬間の芸術を求めたのであろう、著者らしい主張だと思う。「書くためだけでなく、考えるためにも私にあたえられているかもしれない言語が、ラテン語でも、英語でも、イタリア語でも、スペイン語でもないからなのです。そういう言語ではなく、私がその単語を一つも知らない言語であり、ものを言わない事物が私に話しかけてくる言語だからなのです。」これをチャンドス卿にとっては (或いは著者にとっては) もはや信用できない「言葉」を尽くして書いたのは皮肉が利いている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。