スーフィズムと老荘思想
久しぶりの井筒俊彦。数年前に『意味と本質』を読んで大ハマりし、岩波文庫と中公文庫(だったかな?)に入っている数冊を立て続けに読んで以来となる。うん、やっぱり面白い。手強さは文庫本以上で、意味がよく把握できないまま通過しただけの箇所が多々あった。タイトルがそのまま示すように、スーフィズム(イスラム神秘主義哲学)と老荘思想を比較考察した内容であり、上巻は丸々イブン・アラビー(スペイン・セビリヤ生まれのアラブ人、1165-1240)の思想の中核である「存在一性論」を、彼の主著『叡智の台座』とカーシャーニー(イル・ハン国の歴史家、?-1335)による注釈書から多数引用しつつ解説する。
その骨子は、この世界は「存在(ウジュード、エクシステンティア)」または「本質」「絶対的神秘」「そこ知れぬ闇」の自己顕現である、と理解できる。「存在」は「神」ですらない。一切の述語概念の外側にある何かである。つまり「何々である」と表現することができない何かである。この「存在」は一切の区別と境界を超越する。さらに「境界付けられぬ」という境界すら超越する。これを老子は「玄」、または[[[何かで在らぬ]がない]がない]と入れ子状の否定によって表現する。
「存在」はまだ「何でも無い」ものの、可能的にはすべてのものであり、純粋可能体にある無数の事物が烈しく捌け口を求める。この捌け口をアラビーは「息吐」と言い、荘子は「げっぷ」と表現する。「大地がげっぷをする。そのげっぷが〈風〉と呼ばれる。げっぷが現実に起こらぬ限り、何も知覚し得ない。だが、ひとたび起これば、ありとあらゆる、木々の竅(あな)が叫び声を響き渡らせる」。竅(あな)はアラビーの「恒常原型群」に対応する。こうして「存在」から「神の属性群」と「神の諸名」が誕生し、「神の行為群」が成され、「恒常原型群」が生まれて可感的世界が展開する(理解が間違ってるかも知れないけど)。スーフィズムにおけるこの展開過程を、順を追って多様な側面から解説したのが上巻であった。
この展開過程を老子に即して解説したのが下巻である。つまり、「玄」(神秘の中の神秘)が「何かで在らぬ」(無物、無名)となり、「ー」が生まれ、「何かで在る」となり、万物が生まれる。両思想において、この存在論的「下降」は万物が生まれて完結するわけではない。下降の後には上昇が続く。万物が栄え、究極の源泉への上昇が始まり、元の「闇」へと消え、宇宙論的静けさに還る。一見すると時間に沿った創造の全過程は始点も終点もない無時の現象であり、ありとあらゆるものは「永遠の今」の出来事である。(本書より断片的に抜粋)
セム族の一神教から生まれた哲学思想と中国南方のシャーマニズムを受け継ぐ老荘思想、両者の思想が(ほぼ)独立に、歴史的起源を共有せずに生まれたであろうことに驚かざるを得ない。この世界観を一言で表すなら「一が多であり、多が一である」だろうか。これは精神的に生まれ変わる体験をした人の世界観であった。この精神変容をアラビーは「自己滅却」と言い、荘子は「忘れて坐る(坐忘)」と言う。両者に共通するのはある種の体験を経て得られた視点であること。さらに加えるなら、20世紀以降の現代物理学が描く(と僕が勝手に思っているだけかも知れない)宇宙観と表面的に類似するのが面白い。この宇宙観には超人的な精神変容は要らない。だた幾らかの物理学(について誰かが語ること)を聞き齧ってSF的想像力を働かせれば良い。とにかく僕の宇宙観はこんな感じ。
表題書は1月の終わり頃から少しずつ読んでいた。しっかり集中しないと内容が把握できないような根気のいる本はなかなか読む気が起こらないので、一日に約10ページずつ、または30分程度と読む分量を区切って。この習慣は気に入ったのでもう暫く続けたい。馴染みのないスーフィズムが取り扱われる上巻を読む間は概ねこのペースを保ったが、多少なりとも聞き齧ったことのある老荘思想に入ってからは読む分量が増え、その結果として少し疲れてしまった。これは良くない傾向である。次はペースを落とす為の本を読むことにしよう。最後に、本書上巻は前提知識(または慣れ)が無いと中々しんどいと思われる。先ず下巻から読んで、老荘と比較される形で出てくるスーフィズムの言葉の端々からその体系全体に興味が湧いたなら、上巻も読んでみる、という読み方がお勧めかもしれない。