時間は存在しない その2
僕が面白いと感じる本の多くは科学と哲学(と歴史)を取り扱っている。本書も科学と哲学(と科学史)が融合された見事なエッセイである。これを読む間、僕の心拍数は少し上がり、体温が上昇し、僕周辺の系のエントロピーの増加速度を加速させた。これを読んだ僕は(最後の章がまだ残っているのだが)読む前とは少しだけ異なると感じる。それは僕のエントロピーが少しだけ増大し、その間の周囲との関係の一部が記憶となり、可能性の空間が少しだけ広がり、それ故に時間が少しだけ経過したと感じるからだ。
本書の第一部では、僕たちが当たり前のように捉え、現実世界の基本構造としてきた「時間」が崩壊する。この世界を記述する物理学の方程式に「時間」は入らない。関係性のみから成り立つ世界である。「時間」に特有とされる性質は、世界と僕たちの限定された、ぼやけた関係性が生み出す特性に過ぎないことが明らかにされる。続く短い第二部では「時間」が崩れ去った世界がどの様な風景であるかが説明される。そして最終の第三部。ここが本書の読みどころである。「時間」の存在しない世界にも何かは存在し、その何かが僕たちのスケールにおいて、僕たちの慣れ親しむ、過去から未来へと淀みなく流れるあの「時間」を生み出す。その「時間」を構成するカケラを、一つずつ再発見する旅である。そうして、本質だけが取り残された、美しく不気味な世界に再び「時間」が流れ出す。生物にとって都合が良く、僕たちの存在を特徴づける「時間」として。その流れは現実の基本構造では最早ない。
その何かの一つはエントロピーと呼ばれる。エントロピーとは、大雑把に言えば僕たちの不確定性を表わす量のことである。以下、かなり端折るので、正確なところは本書を読んで頂きたい。僕たちと世界の関与の仕方から、つまり系の詳細を無視した巨視的な状態からある特定の変数が選ばれ、それが「時間」の性質を備えている、らしい。その変数は「熱時間」と呼ばれる。その不可逆性の根本には量子の「非可換性」が関与する。こうして、僕たちのエントロピーは熱時間と共に増大する。エントロピーの増大が過去と未来を区別し、記憶(痕跡)が生まれる。僕たちは同類と相互に関与することで、記憶によって一つにまとめられた実在のイメージを形成する。それが、この世界の僕たちの見方である。「時間」はそこに「流れ」る。
プルーストは『失われた時を求めて』の第一巻で、「現実は記憶のみによって構成される」と書いた。これに続く本書の一片を抜粋する。「自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方が独特であるために、また、それによって痕跡が残るおかげで、さらには物理的な実在としての私たちが記憶と予測からなっているからこそ、私たちの目の前に時間の展望が開ける。あたかも明かりに照らされた、小さな空き地のように。時間はわたしたちに、この世界への限界的なアクセスを開いてくれる。つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。」これだけを読んで理解するのは難しいが、これ以上簡潔に著者のアイデアを纏めることは僕にはできない。第三部には「思うに」という言葉が頻出する。それに続く文章こそ、著者が強く確信していて、同時に言いたくてうずうずしているアイデアの閃きの発露でなのある。
本書を読んでない人には一読を薦める。どういう印象を持つかは分からないが、何かしら記憶に残るものがあると思う。その記憶の連鎖が「時間」として「流れ」、僕たちの可能性の空間を拓く。前回で本書のAudible版について少し書いた。たとえ「ながら聴き」でなくてもその朗読を時間の流れに沿って理解するのが難しく感じるのは、僕たちの言語がその内容を的確に言い表すことができるようには発達してこなかったからだ。僕たちの感性はそれを実感するようにはできていない。ヒトが経験も想像もしてこなかったその領域において、言語は漸くその縁に辿り着いたばかりなのである。なお、本項の文体がいつも以上に感傷的に感じられるとしたら、それは多分、本書が言葉を尽くして言い表そうとするその領域が%#$からだ。