香君(下巻)

面白かった。ちょうど読み終わる頃にはWorld-of-Warcraft(ネットゲーム)新拡張の発表会見が始まる時間になっており、読後の高揚感も有って寝床から這い出して見たために、睡眠時間がなおさら削られてしまった。本書の面白さはゲームアイテム的に言うならrare(希少)等級である。その上のランクである神話級(と更に上の伝説級)には一寸だけ足りない。以下は一読しただけの僕個人の感想なので悪しからず。滅多にないくらいに楽しかったと先ず言っておきます。

世界設定と物語展開の見通しの良さによって僕は本書を面白いと思うと前回に書いた。その同じ要因が物語を簡素なものしていると感じる。そういうのは好きなのだけれど。例えるなら綺麗に整備された植樹林。僕の印象では「味わい」がやや欠ける。味わいとは、読者に語られる物語の背後にはまだまだ豊かな世界が深く広がっている、という感じのことで、林の例で言うと木を支える土壌や下草、動物などが織りなす生態系のネットワークの豊かさにあたる。この物語の背後でも匂い(化学物質)を巡る生態系や進化生態学関連で著者が丹念に読み込んだであろう参考文献が現実世界とのリンクを補強していて、それは物語を支える土壌となってはいるが、どうしても本書に簡素感、或いは作り物感が付き纏うのには恐らく二つの理由があると思う。

一つ目は参照する科学的知見それ自体が世界の単純化されたモデル、言い方を変えれば理解の仕方であるから。次の方が要因として大きいと思うのだけれど、二つ目は著者にとって生態学、進化学、生物学的な視点がまだ借り物の知識であるから(僕よりも最新の事情にずっと詳しいと思うけど)。自分の血肉になっていないので自由に(ハメを外して)動けていないと感じる。何となく。これは僕自身も常に経験することだが、自分が十分に理解できていない知識について引用したり発言する際は、誰かが言及したことを真似るか、恐る恐る踏み外さないように当たり障りのない言い方になる。踏み固められた道の真ん中を歩くようなもので、脇に逸れたり藪に踏み込んだりすると何が飛び出すか分からないのでちょっと怖いのである。前作と同様(これも僕のただの印象)、本書でも研究者としての著者の謙虚さが顔を出したのだろう。思い返せば、著者の小説で最も味わい深さを感じたのは『守り人』シリーズだった。文化人類学者としての経験と嗅覚をそのまま活かせたのだろうと思う。本書の主人公が目を瞑ったまま畑を逍遥したのと丁度同じように。

後書きに載せられた参考文献の幾つかが面白そうだった。特にバナナのやつは原著がaudibleに入っていて早速購入した(追記: これはすごく面白いので後日紹介したい。たぶん表題書のアイデア元である)。さて、この文献リストだが、読後の印象では二つほど抜けているように思われる。一つは『サピエンス全史』。なぜこれが本書と関連するかは本書を読めば分かるのだけれど、サピエンス全史で語られる(僕にとっては目から鱗的な)視点も文化人類学的には古くからある、著者にとっては既に血肉となっている視点なのかもしれない。もう一つは『ナウシカ』。本書を読んでいる間ずっと、ナウシカが頭から離れなかた。これは僕個人だけでなく、本書を読んだ人の多くも同じ感想を持つだろう。あの伝説級のアニメ監督も好きそうな物語であった。