ホメロスと色彩

表題書は書店をブラブラしている時にで何気なく手に取り読み始めた本で、少し面白かった。ホメロスが使用した色表現についての考察である。虹が7色に「なった」のはニュートンが非科学的理由(7つの音階、7つの曜日に合わせた)でそう主張したから。僕たちが虹を見て7色を識別するのは夫々の色の名前が代表する標準的な色を探すからであり、言葉によって意識が固定される一例だと思う。実際に見ているのは可視領域の端から端まで連続的に移り変わる色彩の推移で、この全色から成る連続色は現代人が一般的に言うところの虹色とは別物。これを真の虹色と仮に呼んでおく。真の虹色は古代に於いては虹そのものかプリズム様の物を介してしか見ることができなかったであろう。それを見る時の気象状況や環境、さらには気持ちの在り方によっても印象が変わり、そういう意味で個人の経験に基づく色である。この色を虹色(7色の方)と翻訳すると、そこから何かが抜け落ちる。

色を識別するのは人の本能であるが、思うにホメロスの昔には色そのものという考え方は薄く、色とは各人が経験した物・物質に強くリンクした性質ではなかっただろうか。ホメロスが「葡萄酒色の海」と表現するとき、その色は彼自身が経験した葡萄酒の色の筈であり、もしかしたらそれを経験した際の感情も込められている、そういう色であろう。ホメロスは色彩感覚が貧弱であったとするイギリス首相のグラッドストンの言葉は、現代の色彩感覚を敷衍すれば正しいのかもしれない。そもそも現代の色彩感覚を持っていたかどうか。ホメロスの色表現には色彩以外の、例えば「黄金色の」や「青銅色の」という言葉が端的に示すような輝きや高揚感、或いはポセイドンに付随する枕詞的表現(漆黒?深緑だっけ?)の背後にある文化背景や言語理論が込められた筈である。たとえ原文(口承詩だけど)で読もうとも、古代人の常識や感覚は遠く隔たったままかもしれない、そんなことを考えながら読んだ。

因みに”Colour” の語源には2説あり、一つはラテン語”Celo” (覆う、隠す)に由来するという説。服を着て化粧をするように人は色で本来の色を覆い隠す。虹色と真の虹色の関係の様に、色という言葉によって本来の色の経験を覆い隠すという意味にもとれる。もう一つはこれもラテン語の”Caleo”(熱する、温める)説。色素の抽出工程を象徴する。本書の著者と同じく、僕も前者派。

『パルメニデス』はここ2か月に渡って持ち歩き、ジムで運動する前にチビチビと読んだ本で、漸く一通り目を通し終わったのでここに載せておく。さっぱり理解できなかった。本書の裏書から抜き出すと、「パルメニデスの詩的断片をめぐって後世になされ数多の解釈は、どれも道を踏み誤っている。遺されたテクストを丹念に読み直し、”あるもの”をめぐるすべての論証を帰謬論法として捕えてみれば、”あらぬものはあらぬ”と、否定に否定を重ねる道の彼方で、”あるもの”の本性に肉薄することができるだろう」。もう分からない。最も理解し難かった点は、これまで先人たちが考察を重ねた解釈を全て否定し、古代からの謎を解明したとする著者の自信に満ちた姿勢であるが、終章において著者は後塵を拝することを良しとせず、独創性の追求を貫いたとあって、納得がいった。分からなかったけれど、なかなか楽しめた。

最近寝る前に読み始めたのがコレ。忘れていることが多いけど、物凄い馴染み感が有り、例文をブツブツと読むのが気持ちいい。

寝る前、上の本の後で未だ時間がある時に読み始めたのが『中級ドイツ語文法』。前項に於いてドイツ語教科書がつまらなくて読むのを止めたと書いたが、あれは余りに初心者向けだったからであった。後に蔵書箱の中から掘り出した本書、買うだけ買って仕舞い込んでいたのだが、レベルが丁度良い感じである。本書も例文が多く、ブツブツ読むのが気持ちいい。ドイツ語は忘れていることが更に多く、特に冠詞・代名詞類の変化は頭からすっかり抜け落ちている。経験者は知っているだろうけど、これがまたややこしい。