世界は「関係」でできている

少し前のこと、この先10年間で読む可能性が低いであろう本を段ボール箱に纏めて詰め込み、二度に分けて古本買い取り業者にゴッソリ売却した。今回処分した分は今までにも手放さずに取って置いた、一寸気に入っていた本や未読本、そして語学書の大部分も含む。ラテン語・フィンランド語・バスク語・ギリシャ語・スペイン語以外はもう触ることも、そんな余裕も無いだろうと思ったのだ。僕の目標は、趣味の蔵書をカラーボックス一個分、または普通のサイズの本棚一段分まで圧縮することだったが、残した語学書と図鑑類(爬虫類関係)、それからモンテーニュやプルースト等どうしても持っていたい文庫本だけでそれくらいの分量になってしまい、目標にはまだまだ遠い。手放した本の中には時間のある時にいずれ当サイトで紹介したいと思っていた本も何冊か(例えば『収容所のプルースト』や『書物の破壊の歴史』など、ほか軽い本も多数)含まれるのだが、隙間なくパッキングするために詰めちゃった。僕の性分なのでしょうがない。

カルロ・ロヴェッリの『すごい物理学講義』と『時間は存在しない』は再度読みたいので取ってある。これらでは著者自身が研究するループ量子重力理論(だったかな?)の成果として、この世界の時空間は粒子的であることと、素粒子の世界には時間的な要素は存在せず、それは我々マクロレベルの経験において(エントロピーの法則を通じて)立ち現れる性質であることが解き明かされる。忘れてはならないのは、これらはループ量子論学者である著者(独特?)の世界観であり、多数の対立する世界観の一つに過ぎないという点。鵜呑みにするのはまだ早い。しかし、その世界観に僕たちは度肝を抜かれたのも事実であった。この2冊がこれ程面白いのは、著者のプレゼンテーションの上手さに因るところが大きいと思う。単純な一般向け科学紹介書を超えた、物理学的哲学書(あるいは物理学的文学書)と言ってもいい。哲学とは科学的な基礎の上に展開されるものである。一つ断っておくと、だからと言って古い科学知識に基づく昔の哲学書を読むことに意味はない、という訳ではない。僕たちにとっての古典を読む価値は、今の知識をもってそこから何を汲み取れるか、或いは感じ取れるか次第なのである。だからこそ著者はルクレティウスやアナクシマンドロスなど多くの古典哲学者に親しむ。

さて前2冊に続く本作では、実在(?)について著者の理解が解説される。量子論の実証主義(コペンハーゲン解釈)と実在主義の対立に関する本を少し前に紹介した。実証主義とは、量子力学はただ計算の為の便宜的な道具であり、現実の素粒子世界がどうなっているかを知ることはできない、考えてもしょうがないという立場であった(僕の理解が間違えていなければ)。実在主義の方は素粒子世界の有り様を真面目に考察し、この世界は次々に分岐する無限の世界の重ね合わせで成り立つと解釈する(多世界解釈?)。そして著者の立場はこれら二つとはまた異なり、日本語タイトルそのままに「世界は関係で成り立つ」とする。200ページ足らずの本書が結構難しく、僕自身がキチンと理解できたとは到底言えないので、気になった人は是非ご自身で読んで頂きたい。

以下は蛇足。物理学は、モノそのものを説明するのではなく、コト、言い換えればモノ同士の相互作用を記述する。コトバがそれ単独では存在し得ないのと同様である。或るコトバは他のコトバとの境界を得て初めて意味を獲得する。まるで卵が先か鶏が先かのお話のようだ。そして一旦言葉を獲得すると、その体系から孤立した、他と完全に何の繋がりもない言葉を思い浮かべることは最早できない。そういう形態でしか思考できない僕たちにとって、世界は相互作用としてのみ眼前に立ち上がるということも、コロンブスの卵的ではあったがごく自然な解釈なのかもしれないなあと思うのであった。言葉と、僕たちがヒトとして経験するこの世界、はたしてどちらが先なのだろうか。