世界中で言葉のかけらを

初めて気づいたが、筑摩選書のマークが趣深い

『ダンジョン飯』のアニメ第一話が中々良かった。思えばここ10年間で最も楽しんだ漫画シリーズ3つの内の一つで、決して強くはない主人公一行がワイワイしながら探検する雰囲気がすごく好みだった。アニメの更新も楽しみである。漫画のあと2つは『ハクメイとミコチ』と『アオアシ』。前者はそろそろ新刊が出る頃なので、こちらも待ち遠しい。

表題の『世界中で言葉のかけらを』は今年になってから読み始めた本の一冊目。興味や前提知識に関係なく誰もが楽しめる内容である。著者の体験談に基づくエッセーで、言葉の節々から僕と同年代だろうと思われるが、経験の余りの差に驚く。本書に興味を持ったきっかけは或る章のタイトル ”どうかあらゆる泉に敬意を ー 「ぜんぶ英語でいいじゃない」への長い反論” であった。日本語教師(国語教師とは異なる)を務める著者が自身で経験したり同業者から聞いた、外国語を学習したいという動機はそれこそ様々であり、特に心を打たれたのが「祖母と喋りたいから」というもの。大好きな祖母は少女時代に日本統治時代の台湾で日本語で教育を受けた。年を取るにつれて他の言語を忘れていき、もっとも得意だった日本語以外での会話が難しくなってしまった。

もう一つ、「亡くなった妻の最後の言葉を理解したいから」。その人の奥さんは日本から彼の国に嫁ぎ、そこに根付いた。彼女は年を取るにつれて物忘れが多くなり、自分でも気付かずに日本語を話すようになった。その奥さんが最後に残した言葉を彼は記憶しており、「あれは日本語だったはず」と確信している。でも日本語を知らない彼がその言葉を日本語として意味を成すように再現するのは難しく、著者の同僚が聞いても子音が多くて日本語には聞こえなかった。それでも、「日本語を学び続けるうちには、いつかあの音の連なりに巡り合えるでしょう」とその人は言う。

で、「ぜんぶ英語で」への反論の要点は何かと言えば僕自身も良く把握しておらず、気になる人は本書を読んで頂きたい。稀に見るほどの名著と言う程ではないが、かなり興味深いと思われる。そもそも「英語だけでいい」には僕も賛成しかねるので、特にその点に注意を払っていなかった。日本の学校教育課程では、高校の2年目に入る辺りでだいたい一通りの英語は習ってしまうので、第二外国語を一つくらい学べたら良いのにと思う。個人的にはフランス語かドイツ語がいいかなあ。英語の理解も深まるだろう。僕自身も3年生の時は暇にしていたので古典ギリシャ語を(大学書林の教科書が学校の図書館に置いてあったので)やろうとしたが、当時は何だか難しくて直ぐ辞めてしまった。手解きが有ればまた違っただろうと思う。後年になってあまり苦労しなくなったのは、暗記面での苦労は増えたけど、フランス語とドイツ語を少しだけ知っていたからである。

表題書と前後して読んだのが、『ことばの樹海』で言及された『〈辞書〉の発明』。中国における言語研究はかなり古い時代に始まった。その歴史は先秦時代の紀元前4~3世紀まで遡れる。西方ではプラトンたちが名と事物の関係を論じ、インドではパーニニを代表する文法学がBC5~4世紀に始まった。名と事物の関係はギリシャと同様に孔子や孟子らによっても論じられたが、このような抽象的な思索は中国においては深化することは無かった。漢字研究に関心が移ったからである。この傾向は清代末期まで続く。その漢字研究の主要な書物を解説したのが本書である。「文字はことばを離れては存在できず」(あくまで自然言語の場合だろう)、謂わばことばの付随物の様なものである。一方で中国語においては漢字が主となった。「漢字こそがことばであり、漢字そのものが文化の頂点に立つものとなったのである。」