学術都市アレクサンドリア
紀元前3世紀初頭から約900年に渡り古代文化の一台拠点であったエジプトのアレクサンドリアに関しては、その栄光が多くの文献に記述されながらも、その考古学的資料は乏しいらしい。有名なアレクサンドリア図書館に所蔵された多数の文献は段階を経て消失した。この辺りは『書物の破壊の歴史』にも詳しい。一度めはカエサル率いるローマ軍とプトレマイオス朝の戦火による焼失。その後、アントニウスはクレオパトラ7世の関心を惹く為に、焼失を免れた約20万冊をペルガモンの図書館に贈ったという。2度目はローマ帝国下、3世紀から5世紀にかけてのキリスト教徒による異教徒弾圧。これ以降、アレクサンドリアはキリスト教の知的活動の中心となる。3度目はイスラム教による徹底破壊。7世紀中頃にアラブの将軍に陥落され、イスラム世界に組み込まれた。この時、コーランの教えに適わない書物は風呂の焚き付けにされたと伝わる。古代アレキサンドリアが有った場所は、現在では大部分が海中にあり、発掘作業が難しいそうである。
アレクサンドリアはその縁起が約千年ほど前に起こったとされるトロイア戦争と強く関わる。周知のように、トロイア戦争は、ギリシャきっての美女ヘレネが、小アジアのトロイアの王子パリスに連れ去られた事に端を発する。このパリス、別名をアレクサンドロスという(古代において、同名の人物が多数存在することは珍しくない)。
さらに発端を遡ると、女神エリスがアキレウスの両親(海神テティスと人間ペレウス)の結婚式に招かれなかったことを恨み、祝いの席に「一番美しい女神に」と書かれたリンゴを放り込む。このリンゴをめぐり、女神ヘラ、アテナ、アフロディテの間で争いが生じ、ゼウスの命令でパリスの審判を仰ぐ事になる。その当時、禍の子として捨てられていたパリスはアフロディテに裁定を下し、その見返りとして美女(ラケダイモンの王メラネオスの妃ヘレナ)を得た(誘拐した)。こうしてトロイア戦争が始まる。なお、この背景は『イリアス』では語られない。「ホメリダイ」(ホメロスの後継者)と称する吟遊詩人たちにより口承された叙事詩、そのほとんどは散逸し、わずかに残る後世の記録から復元された概要を通して窺い知ることができるのみである。
さて戦争終結後、トロイア方の総大将ヘクトルの妻であったアンドロマケは捕えられ、アキレウスの息子の妻となり、エピロスに赴く。この地はアレクサンドロス三世(以下、大王)の生母オリンピアの出身地であった。こうしてアキレウスと大王は母方の血を介して結びつく。アキレウスは神の血を半分受け継ぐヘロス(ヒーロー)であった。その自負も大王は受け継ぐ。アレクサンドリアとトロイア戦争を繋ぐ糸はまだまだあるのだが、それは本書を読んで頂きたい。
アレクサンドリアは大王の部下であり、大王と共にミエザ(アリストテレスが建設した学校)でアリストテレスより学んだ盟友でもあったプトレマイオスとその子孫の支配下で繫栄する。その学問の中枢であったムセイオン(アレキサンドリア図書館はその付属施設であった)は「世界」の学者を広く迎え入れコスモポリタンな空気に満ちた、自由な学究活動の可能な町であった。アリストテレスの世代までは、非ギリシャ人(バルバロイ)は人に有らずと言われた時代である。このコスモポリタニズムの浸透は大王の気風に因るところが大きいと思われる。
大王は自身の由来とトロイア戦争との関係を自覚して『イリアス』を愛読しており、ダレイオス三世より収奪した何某かの小箱に全巻を収めて枕頭の書としたという(当時の『イリアス』のボリュームから、腰かけられる程度の箱だったと思われる)。後世のアレクサンドリアの学術の中核を為すのは文献学であった。更にその中核課題がホメロスの著作であった。数世紀を経た写本過程により、ホメロスの著作には尾鰭や写本者の創作が付け加わり、或いは欠落し、様々なバージョンが存在したという。そこから本来書かれた形に復元する学問分野を文献学というのだが、都市の創始者である大王とトロイア戦争の縁起を考えると、文献学が中枢を担ったことは必然であったように思われるのである。
最期に一言。上に書いたことは本書の前半(三分の一くらい?)を掻い摘んだ程度であった。巻末に参考文献や関連書の紹介が充実しているので、この話題に興味がある人にはお薦めである。本書の現行版は残念なことにKindle版のみで、紙の本は古書で入手可能かもしれないが、ネット上では定価の数倍しているようである。本書と合わせてお薦めなのが上に表紙を載せた『トロイア戦争全史』であるが、こちらもKindle版のみで、古本は値上がりしている。