体はゆく

ついこの前「この漫画がすごい2023」が出ているのを見て、オトコ編とオンナ編それぞれの一位を読んでみた。オンナ編の方は『ダンピアのおいしい冒険』の作者で、今回も絵柄やテーマはすごく好みではあるものの、何故だろう、僕には不思議と先が全く気にならないマンガである。前作の方も2巻目以降は完全に関心を失ってしまった。一方オトコ編の方は薄気味悪いお話で、不満が無いわけではないが先が気になって仕方ない。ついでに今話題になっている(なってる?)あの大作続編映画も観た。3時間超の上映時間が長く感じなかった位には楽しめたものの、お話の方は凡庸で、綺麗な映像があってこその作品であった。面白さの質はテーマパークのアトラクションに近いと思う。10点満点で採点するなら何となく6点くらい(アトラクションとしてならもうちょっと上かもね)、登場する異世界生物が独創的があればもっと高かった。観に行く場合は、トイレが近くなってきた人はコーヒーを控えた方が良い。僕は途中尿意でソワソワし、結局2度ほどトイレへ立たねばならなかった。

気がつくと僕も老化を感じざるを得ない年齢である。疲労からの回復速度が遅くなって最近は1・2時間程度で運動を切り上げることが増えたし、外国語の単語や格変化もなかなか覚えられない(これは昔でもそうだろうけど)。老眼も出て来て小さな文字が読みづらくなって来た。加えて一年ほど前、呂律が回らなくなり会話で言葉に詰まるようになっている事にふと気が付いた。この変化が急に起こったのか徐々にだったのかは分からないが、思いつく原因はいくつかある。先ずはコロナ。ここ数年は外に出る頻度が下がって人と会う機会が減っていた。元来あまり自分から会話を求める質でも無いので、単純に会話量が減少したために会話能力が劣化した。これが一つ目。

二つ目は脳の会話機能を司る場所に何らかの障害を受けた可能性。発声は意識すれば普通にできるけど、自然に話している状態では幾つかの音(サ行とか)が出し難くなている(または綺麗に出せない)のが自分でも分かる。その舌の動きを司るプログラムが上手く機能しておらず、別の回路で補っているような感じである。会話において言葉に詰まるのは、もしかするとこの出し難くなった音を回避する言葉を無意識的に探しているのかも知れない。言葉に詰まっている間は言語的思考力がフリーズ状態(頭の中が真っ白)になるのが最も困る点である。会話機能を再起動するには何でもいいから適当な言葉を発する必要がある。

言葉に詰まる点に関して、少し面白いこと(当事者としては困った事だけど)に気がついた。4月から外国人の同僚ができて英語で会話する機会が少し増えたのだけれど、英語だと言葉に詰まらずに話せた。ただし目的の英単語がパッと取り出せなくてあれこれ考えながら探すのはしょっちゅうなので、正確にはフリーズ状態にならないと言うべき。母語では無いからかな、などと思って一月二月経つと、英語でも同様の症状が出てきてしまった。

三つ目は痴呆症。もしこれが原因であるならば仕方が無い。一つ目か二つ目(僕はこの両方だろうと思っている)が原因であるならば、劣化した回路を回復・補償するためにトレーニングすれば解決するように思う、多分。この事とは別件であるが、昔から出来なかった「巻き舌のR音(震わして出す音なのでトリルと言うらしい)」の練習をW杯を観戦しながらしていた。「巻き舌R」はスペイン語などは勿論、フィンランド語でも出てくるので長い間のコンプレックスだったのである。この発音の練習方については国内外の色んなサイトや動画の中から自分の感覚に合うものを探すのが一番だと思う。僕には「舌を口蓋に軽く付け、その隙間から薄く息を流して、草笛の要領で舌を振動させる」というのが感覚的に最も分かりやすかった。いきなりこの音を発するのは未だ出来ないが、前に何か音がある場合限定でなら出せる様になった。そういう事であろう。

さて本の話。本来この項は『運動脳』を読んで書き始めたのだが、その後に読み始めた表題の『体はゆく』も上でダラダラと書いてきた事柄に合う内容だったのでまとめて紹介する事にする。先ず『運動脳』の方は、適度な有酸素運動は心の平安、脳の活性化や脳の老化対策に良い、という内容。記述内容の中には因果関係がはっきりしない(或いは分からないので暈して書いている?)箇所が幾つもあって鵜呑みにできないが、趣旨である「適度な運動は脳と健康に良い」というのは本書を読むまでもなく常識であろう。それでも重い腰がなかなか上がらない、という人が動機を得るために読む本だと思う。ストレスと運動の関係であったり、老年になっても発生している脳のニューロン結合は運動によって強化される、など色んな理由を挙げて背中を押してくれる。

僕が知りたかったどの程度の運動か最も良いのか、については本文の最後1ページに書いてあり、実験結果に基づくならば適度な(週2・3回、数十分程度の)有酸素運動が最も効果的だそうである。高強度で継続的は運動については被験者に対して強制できるようなものではないので実験結果は無く(ボランティアを募れば良いのかもしれないが、恐らく何らかの偏りが入るだろう、例えばもともとストレス耐性が強い傾向が有るとか)、自主的に継続するにもハードルが高いので一般的に勧められるものではないが、もし継続できるならばと暈してあった。僕自身、体力をほぼ使い切るようなサーキットトレーニング系の運動は週一回のペースでしかやっておらず、きっと健康(心臓)に良くないのだろうなあと思いながらやっている。

『体はゆく』の方は意識の先をゆく(意識外の、つまり言語化ができない領域の)体の運動性・運動能力の習得や補助をどのようにして行うか、特にテクノロジーを介したサポート可能性の拡張がテーマである。機械(外骨格・エクソスケルトン)を用いて一流ピアニストの運指を体験させる実験や桑田投手のピッチングフォームの話、実際の対象物と視覚上の対象物を少しずつズラす実験や脳波で尻尾を振る実験が話題に上がる。一見してどれも自分とは関係のないことと思うかもしれないが、これが僕たちの日頃の経験と関係ありありなのである。僕には思い当たる点が有り過ぎてここでその全てを書くわけにはいかないので、2・3に絞って以下に紹介したい。

脳波とは脳の神経細胞それぞれの膜電位の変化を脳表面から集合的に観測した波動パターンのことである(間違えていたらすみません)。この脳波の、頭の特定の部位の変動が或るパターンを示したときにディスプレイ上の尻尾が動くように装置を設定しておき、被験者に尻尾を動かすように指示する。もちろん被験者は尻尾の動かし方(それも仮想の)など知りようがない。それでもディスプレイを見つめつつ試行錯誤と繰り返し、或る時偶然せよピクリとでも動かすことが出来るようになると、そのコツは速やかに定着できるようになる。この研究の先には怪我や病気からのリハビリ訓練や脳波による機械操作があると思われるが、これは僕たちが以前は出来なかった動作を習得するまでの過程でもある。上に挙げた巻き舌R(本当は「巻き舌」ではないけれど)の習得も同様で、動画などを調べて分かることは体得者の感覚に過ぎず、その時点では未だ僕の体の外側にある言語的情報(つまりガイド)でしかないのだ。これを自分の感覚にするには、試行錯誤の末、たった一度の偶然でも良いので成功した際の体感覚が必要になる。そこから先の上達は多分速い。

格闘技ジムでよく顔を合わせる一人に、サンドバッグをパンチ連打する時に足の踏み込みを付けようとすると手足の動きがバラバラになって足が止まってしまう人がいる。満遍なく試行錯誤して良い具合の体感覚に辿り着ければ良いのだけれど、言葉ではわかっているのにある方向に調整をずらして行けない裏には何と無くだけれど思い込みが邪魔をしているような気がする。脳の機能は可塑的というが、この可塑とは或る形に一時的に固まる(固める)ことでもあり、当然この性質がないとそもそも学習が出来ない一方で、その同じ性質によって其れ迄の知識や経験から或る種のランドスケープが形作られてしまい(感覚的な表現ですみません、分かりやすい表現が思いつかない)、それが目標までの障壁にもなるのだろうと思う。上で例にしたピアノの運指を機械で強制的にトレースするような感覚を一度でも体験することができれば、ああこのことか、と一気に腑に落ちる違いない。例えば僕には出来ない、足の小指や薬指を個別に動かすことなども、ひょっとしたら可能になるのだろうか。他にもっと言いたいことがあったけど、書いている内に忘れてしまった。

何かが「できる」様になることは一般的に歓迎すべきことだけれど、必ずしもそうとは言い切れないとふと思った。「できる」ようになることは、無数にある様々な「できない」という状態を捨て去り、一つの(または或る限られた)やり方に縛られることでもあるのかも知れない。

最近「言語化」という言葉が流行っている。僕がこの言葉を意識し出したのは多分マンガ『アオアシ』を読み始めてからだと思うが、スポーツにおける行為の「言語化」は技能を習得する過程でのガイドに過ぎないと思っている。ヘリゲルの『日本の弓術』にも書いてあるように、上級者の更に上の上、エキスパート(達人)の域では最早意識が働く前に体は自動的に動くそうである。主人公の葦人もその域(その手前かな?)を丁度垣間見たところ。そういえば歩行のエキスパートである僕も、歩くときに足は勝手に動いている。ひどい筋肉痛でなければ。