時間は存在しない その1
読み始めてもいないのに書く。正確に言えば、読んだけど中身は忘れてしまった。先頃『すごい物理学講義』を再読し、その面白さが忘れられないので続編である本書を再購入した次第だ。現在読んでいるものが長くて、少し気分転換したくなったのもある。本書は一年半ほど前に読書会にて紹介済みで、その時の本はどこにやったのだか見つからなかった。
本書のAudible版は暫くの間聴いていた。読み手は映画ドクター・ストレンジの人で、僕が知っている中でも最良の朗読の一つである。序章最後の文章がまた良く、僕たちがこれから遭遇するであろう知識の深淵を予感させる。正確ではないかもしれないが、以下に少し聴き取ってみる。
“The book becomes a fiery magma of ideas, sometimes illuminating, sometimes confusing. If you decide to follow me, I will take you to where I believe our knowledge of time has reached, up to the brink (?) of that vast nocturnal and star studded ocean of all that we still don’t know.”
これが素晴らしい抑揚とリズムで朗読されるのだ。僕は興奮しっぱなしである。ただし、そこから先の内容は、僕のような「ながら聴き」では理解が覚束なくなる。朗読の「ながら聴き」は読書に例えると1ページ毎にランダムに選んだ数行のみを読んでいくようなもので、論旨を追うためには既に内容を良く知っているか、若しくは聖徳太子やモーツァルトの様な天才性が必要だと思う。モーツァルトの逸話の一つに、彼が14歳の時、システィーナ礼拝堂の門外不出の合唱曲を2度聴いただけで楽譜に書き起こしたという話が有る。それは9声部から成るポリフォニックな曲だったそうで、二つのメロディーが重なるだけでも素人には分離が難しいことを考えると、その難易度はちょっと想像がつかない。
「ながら聴き」は今流行り(?)の「マインドフルネス」から最もほど遠い聴き方である。その「マインドフルネス」の効果を僕は先週末に思い知った。とは言っても何も特別なことをしたわけではなく、ただ映画『ラーヤと龍の王国』を観に行ったに過ぎない。映画館では上映時間キッチリとその映画に意識を集中することが強いられる。それが没入できる内容であった場合、その満足感、映画を観たという充実感、は家のテレビ画面(パソコン画面)では得難いものだと思う。何か別のことについ気を削がれる様な見方だと、そのレベルの充実感は決して得られない。「マインドフルネス」とはこういう事か、と実感した次第であった。この項はこれが言いたくて書いた。
本書に関しては、読後に何か言いたいことが有れば別項で書くかもしれない。そして、もし姪が前作を気に入っているような素振りをみせるなら、「時間に関する現在の知の到達点と思われるところ、まだわたしたちの知らないたくさんのことが星のようにきらめく広大な夜の海へとお連れしよう。」