すごい物理学講義

先ずは断り書きから。本書は3年ほど前の読書会にて紹介済なので、紹介文らしきものは後半に少し付けるだけである。さて、一・二か月前の話になる。職場の近くのコンビニでペヤング(インスタント焼きそば)に激辛カレー味が出ているのを見つけ、遥か昔には僕も辛い物好きだったので食べてみることにした。ここ十数年間は辛いものを口にしていない。

「泣けるほど辛味が強い」などと脅し文句が書いてあるので少し用心して頬張ると、インスタント焼きそば独特の臭さの直後に、辛いというよりは痛みが口いっぱいに広がった。この感覚、久しぶりである。少し辛(つら)かったが食べ切ることはできた。

僕が食べることができなかった、記憶にあるもっと辛(から)い経験は他に二つある。一つ目は小学生の頃に親にせがんで買ってもらったレトルトカレー。何十倍(30か50倍だったと思う、詳細は忘れた)だかの表記があり、そのドス黒いモノを掛けた米は小学生の忍耐を超えていた。結局家族の誰も食べることができず、ソレをどうしたかはもう覚えていない。辛いものは痛いんだなあと妙に感心した。

もう一つはアメリカにて。地方のスーパーには馴染みの無い野菜類が沢山積まれており、ピーマンの類も様々な種類があって、僕はよくピーマンのような物の炒め物を作っていた。ある時、鬼灯の様な可愛いピーマンもどきが片隅に積まれていたのを見つけ、一袋分購入し、家に持ち帰ってピーマンもどきの炒め物を作りにかかった。

下処理の段階からおかしな点はあった。手がピリピリと痛く、周囲の空気も心なしか刺激的に感じたのである。気のせいだろうとピーマンもどきのぶつ切り一掴みをフライパンに投入した途端、身体中の粘膜と皮膚を刺すような刺激が台所一杯に広がり、再び台所に戻れたのは数十分ほど換気した後である。翌日も空気がピリピリしていたと思う。その料理「ピーマンもどきの炒めるつもりだったやつ」は結局食べることができず、袋の口を厳重に結んでゴミ箱行にした。後日、それはハラペーニョであると知人から聞いた。

上の二つは辛さのレベルで言えばペヤングカレー味より低いだろうと思う。ただ、心構えのないところに来る辛(つら)さは一層響くという例であった。実際、僕がこれまで経験した中で最も寒いと印象に残るのは、冬山などの特殊な環境を除けば、なんて事のない東京のとある駅の、吹きさらしのホームで電車を待つ時であった。件の焼きそばはYouTubeで検索してみると動画が色々と出てきて、辛さレベルではなかなかの上位に入るらしい。一週間程して、また食べたくなってコンビニに買いに行くと、もう置いていなかった。

この話と表題書がどう繋がるのか、もう少し辛抱して頂きたい。動画検索の折に、ペヤング繋がりで大食い動画も幾つか出てきた。その中の一つに僕は最近はまっている。チャンネル名をここに書くのは控えるが、それはスーツ姿の若者が淡々と大食いチャレンジをする動画で、後付けの本人解説が面白い。一編20分程度の動画の間中、食べている物に纏わる事をひたすら喋り続けるのである。今時の若者らしい拙さと癖のある喋り方に好感が持て、何よりそんなに話せるものだと感心もする。

その中の一編に、枕ほどの大きさに成形した「寿司」約5キロを制限時間内に完食する、という動画があった。寿司のような小山がみるみる消えていく様は圧巻である。その小山を眺めていて、ふと思った。寿司のサイズは大きい方には際限は無いが(一応、ある時の地球上の米を一箇所に集める事のできる総量が上限かな?)、小さい方には米粒一粒までだなあ、と。そこで「最小のサイズ」を取り扱った本書『すごい物理学講義』を思い出した次第である。後にもう少し繋がる。

本書はもともと僕が読むためではなくて、姪に薦めるために購入した。そしてなんとはなしに最初からページを捲っていたら、つい最後まで読んでしまった。本書前半は古代ギリシャの哲学者たちによる「世界」の考察からアインシュタインと量子力学に至るまでの、非常に簡潔で楽しい物理学史のまとめである。ここで驚くべきは二点。一点めはアインシュタインの直感力であろう。よく知られる様に彼はそれ以前の物理学に様々な革命をもたらし、同時に量子力学の生みの親でもあった。本書では彼が光の量子性について書いた論文の文章こそが量子論の出生証明であると説明する。後に量子論は彼の手を離れ、ボーアやディラック等によって養育を受けるのではあるが。二点目は古代ギリシャの哲人達の論説が今なお虹彩を放っている点だろう。キリスト教会の介入を受ける事なく、古代ギリシャの哲学が中断されずに継承されていれば、科学の進歩は数世紀は早まっただろうと言われる。

この前半部分だけでも読む価値が十分ある。だが、本書が本当に面白いのはその後の章、第六章「空間の量子」第七章「時間は存在しない」、そして第十二章「情報ー熱、時間、関係の網」である。著者が専門とするループ量子論によれば、「モノ」はそれ自体ではどのような場所にも存在しない。「モノ」同士の関係性が空間を形成する。その空間は量子的であり、それ以上は分割できない最小の単位がある。その長さの単位は1メートル掛ける10のマイナス60乗という話で、もちろん信じられないくらいの小ささ。ゼノンのパラドックスは二者の間の位置関係のみを無限に細分することで生じた擬似パラドックスに過ぎず、そもそも何物も無限に細分化することなどできないのである。思うに、無限は、僕たちの「世界」についての知識が欠落した領域に存在する、無知の印なのだ。

そして時間はといえば、「モノ」同士の相互作用の過程を統計的に、つまり細部を気にせず大雑把に把握する際に立ち現れる性質であるという。「モノ」の変数を細部まで隈なく記述すれば、そこには時間は存在しない。即ち、僕たちが把握し経験する「世界」とは、それを構成する「モノ」の関係性を大雑把に眺めた結果として立ち上がる、「世界」の要約された側面なのである。

本書に一つだけ不満があるとすれば、それは「すごい物理学講義」という、いかにもつまらなそうな題名であった。「すごい」はちっとも凄くないのだ。しかれども、翻訳者はこのような題名を意図して付けたのではないだろうかと、再読した際にふと思い至った。どの様な題名であれ、その本の面白さは内容と読者だけの関係性に依存する。一方で、面白さの印象は、そこに少なくとももう一要素、先入観、も加わる。題名で印象を落とすだけ落とした後に本書を読めば、それはもう予想外に面白く感じるに違いないのだ。ちょうど冬場の東京の吹きさらしのホームが予想外に寒くて印象に残るように。