ほんとうのカフカ
12月頭に数日間帰省して以来、主に娯楽小説ばかり読んでいた。ワシントン・ポーのシリーズ(『ボタニストの殺人』ほか)は以前に紹介した通り。その後にラノベ寄りの時代小説を2冊とホラー小説を一冊、それから冒頭部分で中断しているミステリーが2,3冊。ミステリーの方は何れも話に乗れれば面白そうだけど、多分その手の本に飽きたんだろうと思う。仕事納めの夜に表題書を購入して読み始めてみると、これがまあ楽しい。日本語で読めるカフカの幾つかの翻訳版について、カフカを研究する専門家の矜持を乗せた批判が展開されており、読んだのが別の機会であったならその遠慮の無さが傲慢さとして鼻についたかもしれない書き様が面白く感じられ、本をなかなか置くことができなかった。
翻訳物では言語の特性として避けられないことではあるが、著者の(本来の?)意図が翻訳者の解釈で塗り替えられてしまう。ちょうど最近動画で見た例では、ハリーポッター第7巻の最後にスネイプが死ぬ間際、”Look at me.”と言う個所。これを日本語で翻訳する際、通常<吾輩>が自称の彼が「僕を見てくれ」とすると、ある種のニュアンスに固定され、解釈の多重性が失われるとか何とか。カフカの場合はより気を付けなければならない。なにせ読者にイメージを固定させないように、わざと曖昧に書いている節があるというのである。現在僕も『変身』を読んでいる最中なのだが、グレゴールが変身した「毒虫」のイメージが全く浮かばない。ある種の甲虫らしいという説もあるが、歩いた後に粘液が残ったり、小さな無数の足が蠢くと描写されたり、父親が投げつけたリンゴが背中にめり込んで大怪我を負ったりしている。本書では『城』の冒頭を例にとって、さらに深く解釈の問題に踏み込む。ただし、これは問題の入り口に過ぎない。
カフカは確定した稿を残さなかった。彼が残したノートには、ある作品に繋がるかもしれない(無関係かもしれない)文章の断片が分散する。こうしてカフカの作品群には大きく3つの版が存在する。一つはカフカからノートを託されたブロート(だったかな?)の編集版。かれはカフカから破棄するように頼まれたノートを基に作品を編集し、出版してしまった(記憶違いだったらすみません)。二つ目は複数の専門家の手による、近年の研究に基づく「批判版」(これもうろ覚え)。詳細な注釈に価値があるものだそうな。3つ目は、カフカ自身が残したノートの写真を撮り、文字起こしした「写真版」。第三者の解釈を極力省くために、順序もそのまま保存される。あまりに大雑把に書いてしまったが、以上がカフカの作品の実態だそうである。表題書の著者は日本語翻訳の現状を批判しっぱなしではなく、ある種の提案を最後の方で書いていた。気になる人は本書にて。
恥ずかしながら、短編が主体ということもあって、僕自身はこれまでカフカを読まずに来てしまった。ドイツ語の手習いとして何か読むものを探していた際に見つけたのが『変身』の対訳版で、丁度一月前から読み始め、まだ半ばを過ぎたところ。アプリ版独和辞典を購入し、出来るだけ翻訳の日本語文に頼らないようにして読み進めているのだが、なかなか難しい。