トロイア戦争:歴史・文学・考古学

何から始めたものか。少し前に読んだ『B.C.1177』のテーマは、「地中海周辺の後期青銅器文明は何故一斉に、前12世紀の後半に滅亡したのか」だった。同著者の新作(日本語版としては新作、原著は前作?)である本書はより限定的に、トロイア戦争に焦点を当てる。様々な考古学調査によって、ホメロスが物語る都市トロイアとそこで起こった戦争が実際にあったことは多くの専門家が認めている。問題は、「どの戦争だったのか」である。そしてホメロスの語りはどこまで事実を反映しているのだろうか。

少し説明が要る。ビジネスの成功者シュリーマンは後半生に、子供の頃からの夢であったトロイアの発掘にその財産を注ぎ込み、その遺跡を掘り当てた。その成果は否定できないだろうが、調査の性急さと、彼の協力者や先駆者に払って然るべき敬意の欠如から批判的な声も高い。なにより、彼の調査記録には事実と反する事柄が書かれていて、まるで信用できないという。トロイアの所在地と想定されるヒサルルックには、9層の遺跡が積み重なるように埋もれていた。シュリーマンはその第2層(つまり2番目に古い都市遺跡)がホメロスのトロイアと見当をつけて、上層の被害を顧みず一気に掘り進めたのだが、その第2層はより古い遺跡であることが判明した。彼自身後年に反省しているように、彼はその方面の素人に過ぎないのである。現在、ホメロスのトロイアは第6層か7層だろうとされる。この点も少し説明が要る。

より細かく調べれば各層内でも破壊・断続と復旧・再生の形跡があり、第6層は6aから6hの8層に細分化でき、第7層も同様に細分化できる。第6h層の都市は地震に因る被害で崩壊した形跡(前1300年ごろ)があり、その後の第7a層とは文化的に繋がる。そして第7aの滅亡(前1200年前後)は敵の襲撃が原因と考えられ、その後に続く第7b1層の都市は文化が異なるので市民全体、或いは支配者が入れ替わったと考えられている。この敵がミュケナイでありこの襲撃があの戦争であったとして、問題はこの地震の被害から復旧した第7a都市にはホメロスの物語るような荘厳な城壁や塔が存在しないことである。それ以前にも戦争は有った(痕跡がある)。ホメロスはこれより以前の戦争について語ったのだろうか。

邪馬台国と卑弥呼を廻る謎については情報の少なさが原因である(と思われる)が、それとは逆にトロイアを廻る考察で困難な点は、情報が多すぎるという事であるらしい。情報源は3種あり、先ずはホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を中心に同テーマを取り扱った「叙事詩の環」の存在。ホメロス以外の作品は断片しか残っていない。次は文字記録。ヒッタイトが残した記録からはトロイアや例のあのパリス(アレクサンドロス)と同定できる名前が見つかる(呼び方は異なるが)。そしてそれらの記録の中にはホメロスのお話の内容とは異なるものもある。3つ目は上でも紹介した、考古学的情報。そして現在判明している情報を矛盾なくつなぎ合わせることは、著者によればどうやら不可能である。ホメロスはあの戦争から約5世紀も隔たった詩人であり、彼の当時においてもあの戦争は伝説であった。時代を隔てた幾つもの出来事を一つの戦争の中に集約して語ったとしても不思議ではないとする。付け加えるなら、過去に於いては実際の出来事そのままより物語の方がリアルに聞こえるならば、それはより「真実」だったのだろう。

さて、若い頃は歴史が勝者によって語られる(或いは捏造される)一方的な視点に過ぎないということを知り、「カトリック教会め(注:例えばの話)」と憤慨したものだが、近頃は考え方が異なってきた。言うまでもなく歴史とは誰か(もちろん人間の中の)が書き残した、過去に起こったとされる出来事の一連である。人の記憶は余りに頼りなく、自身が過去に経験したことですら歪曲なしに記憶しておけない。言い換えると記憶を書き換えてしまう。これが元で関係がもつれたりするのだが、それはまた別の話。伝承に記憶違いや誇張、こうであってほしいという歪曲や捏造が混じったとして、それこそが人間性というものである。そして一方的な視点も正に人間性に由るものである。全人類が思考を共有する集団知性(たとえばスターシップトゥルーパーズの虫ような)や神の視点のようなものをヒトが獲得したとして、彼らにはもはや歴史を「物語る」必要が無いだろうと思われる。彼らの歴史は電車の時刻表の様な、少しも面白みのないものになるだろう(時刻表マニアが居ることは知っているけれども)。

人間性によって、人は物語るのである。実際に起こった出来事、それは勿論立場によって異なった意味を持つのだけれども、それらを制限された視野から同時代や後世に伝える行為の結果が歴史だと思っている。そこには人間性に由て、捏造や歪曲など事実とは異なる内容も含まれるかもしれないが、その経緯も歴史である。ホメロスの物語が伝える内容が事実通りでなかったとしても、その様で無ければもしかしたら後世に残らなかったかもしれない彼の作品が後世に与えた途轍もない影響もひっくるめて、そのまま歴史の真実だと思う。