いきている山
『いきている山』。まだ読みかけだけど、素晴らしい。スコットランド北部にあるケアンゴーム山群を愛し、通い続けた著者ナン・シェパードのエッセイと言うか思考集と言えばいいか、ジャンル分けが難しい本である。ケアンゴーム山群は本書に挿入された地図で見る限り10kmちょっと四方に広がる、高さが精々1200m程度の山塊だが、山の魅力は高さに比例するわけではない。ある章では切り立った断崖の遥か向こうに横たわる湖が、ほんの数歩先に見える程に澄み切った空気について語り、また別の章では細くも強い水の流れが洗う石の表面に氷が形成される様を描写する。踏破した山頂の高さや数を収集するような山行は言わば山の表面を歩くようなものであるのに対し、彼女の山行は山の内部へと分け入る。
僕が登山をしたのは幼少から主に20代前半位までで、それほど経験があるわけではないのだけど、それでも本書を読みつついろんな体験が頭を過った。何処かは書かないが、渓流を遡行して突然視界が開けると、足元から雪渓が伸びて横たわり、それを追って目を上にやるとガレ場の向こうに目指す山頂が見えた景色。訪れる人も少ないであろう、ハイマツに囲まれた稜線を進むと岩と砂場に囲まれた湖(と呼ぶには余りに小さいのだけれど)に出会し、ハイマツの海の中でポッカリと開けたその砂漠のオアシスの傍で雑魚寝した。その時に見た宵の口の景色がまあ綺麗だった事など。本書は万人が楽しく読めるような本ではないが、山行経験のある人と自然への想いが強い人には文面以上の価値がある。僕自身は繰り返し読むことになるだろう。
『一神教と帝国』は期待通り面白かった。これを読んで改めて確かめた(確かめさせられた)のは、僕は社会への関心が薄いんだなあと言うこと。高校に入って間もない頃に理系か文系のどちらに進みたいかの進路相談があり、小説と歴史が好きだったので文系と答えると、間髪入れず「君は理系でしょう」と断言されたことが、トラウマではないが強く心に残っている。数学や物理が苦では無かったのでそんなもんなのかなあと納得したのだが、今になって思えばこの社会への関心の薄さを見透かされていたような気がする。と言うのも、本書では今後間違いなく衰えていくであろう日本の国際的競争力?と枯渇していく文化的な発信力?をどのように維持するかについて再三議論されているのだが、その点が僕はあまり共感できなかった。共感度は上から順に山本氏、少し開いて中田氏、内田氏。これは多分世代差かもしれない。
僕自身の希望、と言うか理想は中韓のように国家主導で海外に文化発信する方向ではなく、その逆がいいなあと思う。つまり、文化的小乗主義、国内で自国文化の教養を高めるという方針。その要の教養が衰退していることが問題だったんだけどね。学校教育で英語に力を入れるのは反対ではないが、その為にかどうか、古文と漢文の学習時間を犠牲にするのは僕の理想からすれば本末転倒である。それらは日本の文化、あるいは東アジア文化が拠って立つ基盤なのだから。その点でイスラム社会は国民国家の枠には収まらないが上手くやっているらしい。日本には情報が殆ど入ってこないイスラム文化について、何か凄く面白そうなものがありそうだぞと、細く開いた障子の隙間から垣間見させてくれる、そんな本であった。僕も西欧言語ばかりやっている場合じゃない。
とは言うものの、良いと評判の本には素直に興味を惹かれる。『世界はラテン語でできている』で絶賛されていた教科書の一つが『ラテン広文典』である。そんなに良い本なら、ラテン語をやるのは少し負荷が高いけど読んでみようかという気になって入手した。本書は現在絶版であり、中古は「良い」品質から出ていて、そこそこ以上の値段が付いている。購入ボタンを押すのに暫く躊躇った。が、いずれ復刊されるだろうけど何時になるか分からないし、このレベルの語学書なら無駄にはならないだろうし。
現在読んでいる箇所はほんの入り口部分ではあるが、ハッとさせられる記述が多い。一つは語順について。ラテン語は屈折要素が発達していて、英語や中国語と比べると語順が自由なのが特徴の一つである(因みに例に挙げたその2言語はかなり語順が縛られる、断言はできないけど)。しかしながら、語順を変えた文が全く同じ情報を伝えるかというとそうではなく、何を主題として何を強調したいかは語順が伝える情報である。この点は日本語も同様。さらに、節約的な言語である点も強調されている。節約的とはつまり、文脈からわかる単語、例えば主語や所有代名詞などは省略される。これが文語ラテン語のデフォルトモードであり、もしそれらが置かれる場合は、何か意図があるということ。この点も日本語、特に古文に似ていると思う。