プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?

表題書の『プルーストとイカ』。読み始めて直ぐに思い出した。もう多分7・8年も前のこと、当時アマゾン経由で古本を購入して読もうとしたのだが、日本語訳が余りに読み辛く、文字を追うのは諦めてAudibleで聴いて済ませたのだった。訳よりは幾分か分かり易いものの、僕の場合Audibleは良くて「ながら聴き」になってしまうので細かい部分は大幅に聞き逃し、結局良く理解しないままほったらかしにしていた。今回再度読んでみようと文字を追い始めたのだが、やっぱり日本語がすんなりと頭に入って来ない。理解の為の要素は揃っているのでよく読めば分かるのだけど、とにかく流れが悪い。これには閉口した。実は本書の前95%は最終章の前半に要約してあり、これを前もって読んでから、気になる箇所がもし有るなら該当章を開くのがストレスが少ないだろうことに、読み終わる頃になって漸く気が付いた。

さて内容の方であるが、「誕生してから6000年も経っていない、たった一つの文化的な発明によって、脳内の回路の接続方法が変えられ、人類の知的可能性を拓いた」という主張を、文字の発展と脳の生理学的研究に基づいて段階的に解説した、というもの。文字の発明以降の人類文明の加速的発展を考えると、この主張は説得力がある。文字の認識と読解の自動化により、言葉を介した思考に数ミリ秒の時間的余裕が生まれる。これが思考をより深化させ、更には自己認識を可能にしたかもしれないと言う。そもそもの言葉の形式であった会話(対話)がコミュニケーションの為の道具である一方、読字は内省を促す。

若者が文字情報の表面的な理解に終わることを危惧して、ソークラテースは文字を嫌った。本書が執筆された当時はインターネットが一般的に広まり始めた時期にあたる。著者は、若者がネット上で余りに簡単に拾える膨大な量の情報に翻弄され、知識の表面的な収集に終始することを同じく危惧する。折角習得した思考の深化が危うくなるかもしれないと。この警鐘は当たっているかどうか。ネットを介する文字情報の奔流は媒体の変化に過ぎないように見える。つまり粘土板が(中間段階を経て)紙に置き換わり大量に保存できるようになったように、量的な変化に過ぎないと僕には思われる。思考にもし質的な変化を及ぼすような文字に代わるものが在るとすれば、映像(例えばyoutube上に溢れる動画のようなもの)かもしれないと言うのは安易過ぎるだろうか。

『ウクライナ・ロシアの源流 ~スラヴ語の世界~』はもう一年近く前に購入しておきながら、アマゾンの包装すら解かずに放置しておいたもの。これは何を買ったんだったかなと開封してやっと目に留まった。いざ読み始めてみると、これがまあ面白い。面白いとは言うものの、外国語学習好きにしか響かない内容ではある。前半はスラブ語の簡単な歴史と、スラブ語内の各グループ、それぞれ西スラブ語(ポーランド語、チェコ語、等)、東スラブ語(ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語)、南スラブ語(ブルガリア語、クロアチア語、等)、の特徴と比較が簡潔に分かり易く纏められる。著者の頭の中で見通しお良く整理できていることが伺える内容であった。ロシア語をまたやりたくなったけど、ハンガリー語に手を出したばかりだしなあ。

そのハンガリー語には『四週間』と『ハンガリー語の文法』を使用。もう新しい言語には手を出さないと何度も決意しながら、またやってしまった。と言うのも先日、しょっちゅう立ち寄る書店の、書架下の在庫引き出しに大学書林の本が一杯に詰まっているのを偶然見つけ、好きに見てくれと言うので漁っらせて貰った。両書はまだアマゾンで新品を買えるようだけど、約30年を経て紙が少し黄ばんだ実物が妙に気に入って購入した次第。まだ読み始めで何とも言えないが、特に四週間の方は少々不親切で僕の好きなフォーマットである。両方とも中身が濃い。どこまで続ける(ことができる)のかは不明。