いつもの言葉を哲学する

僕たちは自由に考えることができるように思えて、実際のところ自由はそれほど無いのではないかと思う。例えば日々の何気ない会話。録音した事はないが、そして他の人は知らないが、少なくとも僕自身が話すことの大半は恐らくルーティーン化した事柄を、使い慣れた言葉で繰り返しているんだろうと思う。たぶん言葉の候補や話の展開の仕方にある程度のリンクができていて、数える程の選択肢しか即座に引き出せないようになっているのだろう。燃費がよろしくない脳機能の省エネ化という、進化の過程のどこかで動物が獲得した、生存競争に大変有利な形質なのだろうと考えている。なお、このお話も僕の思考法のパターンに沿ってでっち上げている。

この省エネ化は何かを書く時に顕著に意識される。何を書くかはある程度決まっているとしても、書き出しは誰でも苦労する(僕だけじゃない筈だ)。言葉の選択も向かう方向もより自由なのに。自由が過ぎて頭が処理しきれないのかもしれない。出だし一文でも書くことができたら、選択肢も程よく制限され、ルーティーンに乗っかって言葉が次々と出てくる。思い浮かぶのはいつも通りの使い慣れた言葉ばかりなのだけれど。(同様にスポーツ選手が試技前に行うルーティーン的動作、あれは訓練で身に付けた身体運用へと運動を無意識化・自動化するための引き金なのかもしれない。)もっと適切な言葉、良い展開が有るのは分かっている。でも、それらは「いつも通り」から外れたところ、遠くの方で微かに点滅しているだけでなかなか手に届かない。この省エネ化によって、僕は常に歯がゆい思いをし、あの表現なんだっけ、とエネルギーを大量に浪費することになるのだ。進化の結果が現代社会で悪影響となる一例である。ブログに書評まがいの文を書き込むようになるなど、100万年前の誰が考えよう。

さて僕は本のレビューと称して、大抵は本を読んだ際に思ったことをダラダラと、大体週一の頻度でこの様に書いているのだけれど、何か書こうと思い立った理由は「いつも通り」から脱却したいからであった。でも実践してみて分かったことは、結局はいつもの通りへと流されてしまうという事である。このブログを見てくれている人はもうお気付きだろうと思うが、僕は大体同じような事柄を、同じ様な言葉で、同じ様な筋道で書いている筈だ。思いつくままに書いてこうなった以上、これはもう進化的と言って良い。そしてこの「いつも通り」は文章書きのプロ・小説家やエッセイストも、通りの広さこそ違うものの同様に当てはまる。分かりやすいところで例えば、北杜夫のエッセイを何でも良いので二冊ほど読んでみれば納得いく筈である。

使い慣れた言葉、どこかで見聞きして頭に残っている言葉をよく考えもせず使うのは楽な行為で、楽な方に流れるように脳は出来ているに違いない。無意識に浮かんでくる言葉、それ等を繋ぐ際に無理がないかどうか、文脈に合うかどうかのチェックにだけ、意識が働いているように思える。だからこそ、よくよく考えてみると可笑しな言葉が生まれ、それを構成する単語は僕たちの馴染みなので、文脈に沿って何となく理解してしまうのだろう。

例えばコロナ関連で「自粛の解禁」という言葉。問題なく理解できそうではあるが、これは二重の意味で間違えている。何処がおかしいのかは少し考えて頂きたい。もう一例として「濃厚接触」。別に間違いではないのだが、元の言葉は “close contact” である。もう少しふさわしい言葉が無かったものだろうか。この言葉からは、ガチムチの髭のおっさん二人がレスリングをしている場面しか僕は思い浮かべることができない。でも、きっと僕の感覚がズレているのだろう。この様な、最近の言葉遣いに見られる違和感について断片的に(新聞、雑誌のコラムなどに)書かれたものを纏めたのが表題書である。いつも通り、本に関しては少ししか書かない。

多くの人もそうだろうが、僕も頭を使うことが若い頃から嫌いであった。考えることは大変疲弊するのだ。なので作業を反復や習慣化を経て無意識化できるのであれば、そちらに逃げがちである。頭の良い人とそうでない人の差は、考えることに向き合えるかどうかなのだろう。僕も借り物の、いつも通りの言葉ばかりでなく、しっくり来る言葉を探さなくては、と思う。言葉の本質を追求した結果、精神が崩壊するような苦悩を味わったマラルメの例もあるし、たぶん思うだけで終わるのだろうけど。