ふだん使いの言語学

僕たちは一寸した会話の時に、言葉の選択や語順にはそれほど注意を払わない。思い付いたままに言うだけである(言わないものもある)。ももちろん、ストレスがかかる場合などでは例外もある。通常の会話では、話の流れや言い方、表情、アクセント、イントネーションなどから誤解の可能性を減らせるし、話が噛み合わなくなれば即座に確認もできるからだ。第一、意識は会話の内容に占有され、言葉遣いは意識せずとも口を突いて出てくる、身に染み付いた(習慣となっている)言い方になる。だから地元では方言が自然と出てくる。僕など、何かを尋ねる際に「~け」という、幼少の頃に4・5年住んだに過ぎない片田舎の方言が未だに優位に出てくる。家族がこれを使うのは聞いたことが無いし、後年に移り住んだ地元でも使用されない言い方なのに。方言について書いたついでに、僕は「見せて」のことを「めして」と言ってしまうのだが、何処でこの癖がついたのか、その由来が良く分からない。

書き言葉の場合は、会話時に受け取っている言外の多くの情報を得ることができないので、注意が必要となる。ある言葉の連なりを書いた時、意図した意味以外の読み取り方が可能かどうか、一旦考えてみないといけない。仕事のメールなどで誰しも経験があるだろう。これは騙し絵(例えば「ルビンの壺」)を見るようなものなので、こういう意図で書いたという自身の思い込みが邪魔をする。長い文章の場合、意図しない多義性を完全に消し去るのは難しい作業だと思う。僕もこのサイトは書きっぱなしにしている場合が殆どなので、恐らく予定外の受け取り方をされている文章が少なからず有る筈である。多義性は言い回しや語順を変えれば一義に定まる。思うに、文章が平易で読みやすい作家は、その辺も上手である。

より注意を要するのは、ソーシャルネットワーク上で、対面での会話と同じ感覚で文章をやり取りする場合だと思う。僕はSNSを全く使わないので詳しく知らないが、メールを送る時などは、仕事・プライベートの差なく、伝えたいことが一義に読み取れるように、それなりに気を遣っている。絵文字や「w、笑」等のネットスラング、伝統的にその言語では使用されない記号(日本語の場合は疑問符「?」など)をできるだけ使いたくない古い人間なので、尚更である。

表題書は、意図しない意味に解釈され得ると言った言葉遣いの多義性も含めて、日常的に使用する言語表現の潜在的な問題点や特徴に関心を促す本である。普段僕たちは何となく日本語を使用しており、現代日本語基準で何かがおかしい言葉使いに遭遇すると、それが変であると言うことが、例え文法知識がなくても分かる。その判断の源泉は、以前『英語独習法』の紹介文にも書いた、無意識下のスキーマから来ている。ある言語の文法構造とは、多分、そのスキーマを後追いで体系化したものに過ぎない。『独習法』では外国語のスキーマを効率よく習得するにはどういった学習をすれば良いかが提案されていた。一方、本書ではスキーマとはどういうものか、その構成要素がチラ見せされる。普段使っている言葉に少し気を遣いたい人にはお勧めである。「言語学」と銘打ってはいるものの、気楽に読める本である。

成る程、と少し感じたトピックを一点だけ。虚言は必ずバレる。これは多分、先人の経験に基づく言葉であるが、言語上の制約的な理由もある。或る内容の虚言を発した時、その言葉は言外にも複数の内容を「真」として発信している。これはスキーマによってそう解されるのである。以降その言葉の発信者は、当の虚言に加えてそれに付随して発信された内容とも矛盾が無いように、その後の発言を選ばなければならない。そしてそれらの発言がまた、複数の付随内容を発信する。こうして、言葉を重ねるほど、矛盾のない道筋は僕達が(少なくとも僕が)思っていた以上に制限されてしまうのだ。

助詞の「は」と「が」の違いと使い分けに関する話も興味深かったが、長くなるし混沌としているので割愛する。これらの様に明確な区別が難しく、かつこれだけ用法の広い言葉だと、過去に有った単一の言葉が分化したか、或いは過去に個別に存在した別の意味の言葉が統合されたか、ひょっとすると複数の方言的な言葉遣いが標準語化して現在の形になったのかもしれないなあと感じたのであった。