J.R.R.トールキン―世紀の作家
『指輪物語』を読んだ人はどれ位いるのだろうか。僕の大好きな作品ではあるが、これを一般的な大人に薦めようとは思わない。粗筋を知るなら映画で十分だし、映画が再現できなかった作品世界の「奥深さ」や「味わい」を感じ取るには幾つかの条件が必要になる。読み通せなかったという声を以前よく耳にしたが、仕方がないと思う。忙しい生活に合う小説ではないのだ。相手が10代の少年であればお薦めしたいところだが、危険だよと注意を促す必要があろう。僕は中学の終わり頃にこれを読んで、読了後一週間くらいは何にも集中できずボンヤリとしていた。魂の一部は今でも中つ国に残したままだと思う。危険な本なのである。
21世紀を目前にして、英国各地で新聞社や放送局が主催するアンケートが実施された。20世紀で最高の小説は何か。結果は『指輪物語』の圧勝であった。唯一、北アイルランドでのみ、地元作家であるジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』がトップになった。この結果に評論家達は憤慨したらしい。最高の文芸作品とは一般大衆には理解が難しいものでなくてはならないからだ。『指輪物語』のように誰でも理解できる作品には評論家の出番がない。
『指輪物語』は1954年の出版直後から評論家たちに不評であった。こんなものは10年も経たずに忘れ去られるだろうと。前作である『ホビット』は子供向けの「妖精物語」として、成功をもって迎えられた。 日常の世界にあちら側の要素が混じり込む従来の「妖精物語」とは異なり、架空の世界を一から設定し、その中で物語を完結させる革新性があった。この世界(中つ国)をトールキンは二十歳の頃からコツコツと作り上げたらしい。そしてその広大で奥深い世界の一部で物語を書いた。『ホビット』を読んで受ける印象、物語の背後にはまだまだ何かがあるという感じ、はここから来る。余談になるが、この作品をもって「ファンタジー」(所謂ハイ・ファンタジー)というジャンルの祖と言っていい。もしトールキンがいなくても同類のジャンルは誕生しただろうが、それは僕らが今知るものとは細部が別物になったはずだ。
余談を重ねるが、『ホビット』には3つのバージョンがあるのをご存じだろうか。一つ目のバージョンでは後に来る大作を想定していないので、幾つかの個所で設定に重大な齟齬があるらしい。例えば物語中盤、ビルボがゴクリとなぞなそ勝負をして指輪を騙し取る場面で、ゴクリは指輪に頓着せず、平穏にビルボと別れる。二つ目のバージョンではこの場面も含め、全体的に『指輪物語』に寄り添う形に改訂された。日本語版『ホビット』はこの改訂版である。それでも残る作品間の食い違いは、『指輪物語』作品内でガンダルフ自身によって洗い直され、辻褄の合った真実の物語として語られる。これが三つ目のバージョンである。ガンダルフはこの調査に17年を費やした。 同様に『ホビット』から『指輪』まで17年が必要であった。トールキンは己の費やした歳月をガンダルフに仮託したのかもしれない。(偶然の一致かもしれない。物語冒頭のフロドは33歳、これは作品中意味のある数字だ。旅立ち時の50歳は区切りの年齢である。)
『ホビット』の成功を受けて17年後に出版された『指輪物語』であるが、当初の期待を裏切って子供向けの範疇を大きく超えたものであった。また作品中に散りばめられた、韻を踏んだ数ページに渡る長大な詩歌や場面場面での文体の違い、意味不明な架空言語による文の挿入(しかも翻訳が付かない)など、売れる本の条件を悉く外したものであった。トールキンの本職はオックスフォード大学の教授であり、売上には無頓着であったらしい。売上を危惧した出版社はある特殊な契約で出版した。 因みにこの架空言語、クエンヤとシンダリン、はトールキンが専門とする言語学・文献学の学識をもって創作された。クエンヤはフィンランド語を、シンダリンはウェールズ語をモデルにしている(詳細は『指輪物語』追補偏)。それぞれ『カレワラ』『マビノギオン』という文献学的に復元された文学があり、トールキンに影響を与えた。
『指輪物語』は文献学的な作品と言われる。文献学とは断片的に残る伝承、民話、地名などから本来あったであろう形を復元する学問である。トールキンは彼の創作世界「中つ国」の創造にあたって、地元イングランドの言葉や地名を参考にした。言葉の古い形は固有名詞、特に地名によく保存される。トールキンの目にはそれぞれの言葉や名称が地層のように積み重なる言語の変遷の歴史の、どの層に由来するか容易に識別できたであろう。なにせその分野の第一人者である。地元を基にホビット庄を創り、本来はこうであったかもしれない歴史を「復元」した。その一部が『指輪物語』として語られる。
トールキンはジェイムズ・ジョイスとよく比較される。同年代であり、創作に於いて売上を気にせず、それぞれ代表作をもって後世に名を残し、二人とも言語に興味があった(ジョイスはアマチュアの言語学者でもあった)。また作品中に多くの引用をしている点も共通している。『ユリシーズ』は周知のように、ホメロスからの引用に満ちていることは明らかである。一方で『指輪物語』での引用は「丘のように古い」。引用元は既に忘れ去られ、日常の言語に溶け込んでしまっているので、注意深い人間でないとそれとは気付かない。古い古墳がまるで自然の丘のように風景に溶け込み、人工物と気づかれないようなものだ。こうした引用は作品の「味わい」となる。
『指輪物語』の成功以降、多くの他ジャンル作家が「ファンタジー」に参入した。アーシュラ・ル・グインもその一人であった。以来「ファンタジー」は二度の転機を迎える。一度目はミヒャエル・エンデ等の、心理学と結びついた作品だ。二度目の転機を代表するのはハリーポッターだろう。ファンタジーが日常に帰ってきて、飽和する。飽和状態しか知らない人は、それが以前、如何に魅惑的でかつ危険であったのかを知らない。H.P.ラヴクラフトの遺産を継承した作家は大勢いた。その中には創始者に並び、超えた者もいたと思う。しかしトールキンの継承者のどれくらいが彼と比肩できるだろうか。彼の残した作品は彼の創始したジャンルの中で、一介のファンタジー作家には真似のできない巨大なモニュメントとして特徴づけられる。
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