七十人訳ギリシア語聖書入門

手短に。『七十人訳ギリシア語聖書入門』では、ヘブライ語で書かれたとされる聖書(旧約聖書)が、前1・2世紀頃?にアレキサンドリアでギリシャ語に翻訳された経緯と、現存するヘブライ語版とギリシャ語版の相違などが解説される。

以下は相違について。エルサレムの神殿に安置されたとされるオリジナルの版(そういうものが在ったとして)は、異民族の征服によって遥か昔に持ち去られたと考えられ、翻訳元になった版がオリジナルの記述内容をどれ程留めているかは最早分からず、当時既に複数のヴァージョンが現存したと考えられる。この翻訳版の初版も残っておらず、4世紀から5世紀にかけて作られたと考えられる3つの写本(ギリシャ語版からの写本)が現在に残る。一方でヘブライ語の写本は11世紀に作られた版が最も古いとされる。

つまり、現存するギリシャ語版とヘブライ語版は共通祖先から互いにかなり隔たっている。これが両者間に見られる相違の原因の一つ目。もう一つの要素は、誤訳(と意訳?)である。ヘブライ語は当時で既に死につつある言語であった。ヘブライ語は母音を記さないので、同じ綴りに複数の読みが可能になる。ネイティブでもなく、またパレスチナへの土地勘もないアレクサンドリア在住のユダヤ人が意味を誤って解するのは避けられないことなのだろう。聖書(旧約)は分からないことだらけ、という話であった。

同時に読んだのが『謎とき百人一首』は、ただ和歌を鑑賞したのみ。タイトルに有る「謎とき」部分はつまらない。一方で英訳はなかなか面白かった。和歌は掛詞によって言葉の意味が多重になり、場合によっては全体の意味まで複層性を持ったりぼやけたりもする。そうした場合には妙に長い英訳になったり、訳1・訳2と訳を分けて付すのは、どうも避けられないことの様だ。このような翻訳に纏わる工夫や思索を綴ったエッセイ、『英語で読む万葉集』(リービ英雄)、のようなものを期待したのだけど、少し毛色が違った。

さて、百人一首を改めて読み返して、それだけだとそれ程面白いものでもないので、それぞれの歌をランク付けしながら読んだ。動画サイトでよく見かける “tier list” 風(上から順にS,A,B,と続く)に言うなら、

A:(57番目の歌)紫式部「めぐりあいて・・・」。恋の歌ではなく、幼馴染との束の間の再会を詠んだ歌とは知らなかったなあ。
S:(60)古式部内侍「大江山・・・」。当意即妙さがSランク。
A:(61)伊勢大輔「いにしへの・・・」。これも機知が素晴らしい。
S:(62)清少納言「夜をこめて・・・」。孟嘗君の故事を引き合いに出した応酬を踏まえての歌である。なにより、清少納言のファンなので。

A:(79)左京大夫顕輔「秋風に・・・」。澄んだ風景描写が良い。「さやけさ」という言葉も気に入った。
A:(81)後徳大寺左大臣「ほととぎす・・」。上と同じく単純な風景描写だが、初夏という背景と、聴覚から視覚への感覚の移り変わりが好きである。
S:(87)寂蓮法師「村雨の・・・」。ミクロからマクロへの視点移動で描かれる動的な風景が目に浮かんだ。

上に取り上げた和歌番号が後半に偏ったのは、初めのうちはランク付けしていなかったからである。