8(エイト)上巻
或る時寝床でふと考えたこと。もし僕がこれまでの読書の記憶を全て忘れたとして、それでも知識レベルと興味範囲は今と同じと仮定して、元の僕はその僕に何を先ず読むように勧めるだろうか。思い入れを排除して今読んでも面白いだろう本を選ばねばならない。『すごい物理学講義』『生命、エネルギー、進化』『意識と本質』『カラマゾフ』辺りが真っ先に思い浮かぶ。SF・ミステリー・歴史小説は同程度に面白いものが沢山有って絞れない。『赤毛のアン』は原作でAudibleだな。Audibleも入れるなら『ハリー・ポッター』と『ダ・ヴィンチ・コード』の原作版も挙げておかないと。などと考えが巡り、眠れなくなった。
表題の『8』は僕にとって正にそんな状態の小説である。読んだのは出版されて直ぐの頃なので凡そ30年前で、「知的で面白かった」以外の内容を殆ど覚えていない。読後は同類の小説をいろいろと探して『薔薇の名前』に辿り着き、その時の「同じようなお話をもっと読みたい」という気分はそちら側へ移行した。本書の内容を忘れてしまった原因は恐らくそれだろう。本書を『薔薇の名前』と比べておくと、先ず冒険小説と歴史ミステリー、とジャンルがやや異なり、知的刺激は後者が圧倒的に上、荒唐無稽さは本書が圧倒的に上、面白さは人それぞれという感じ。『薔薇』を読んだという人には何人か出会ったけれど、身近で本書を読んだ人は知らない。僕自身もずっと忘れており、寝床で上記の考えを巡らせた際に思い出して読み始めた。
さて本書であるが、シャルルマーニュ(カール大帝)がサハラ(アルジェリア)から来たムーア人より贈られた伝説のチェスセット、モングラン・サーヴィスを巡る冒険小説である。そのチェスセットにはある秘密が隠されており、その秘密とは古くはピレネーのケルト人やバスク人によって秘匿されてきた知識を、その地を征服したアラブ人が公式化したもので、チェスの達人のみが解読できるとされる。このチェスセットはその後の千年間は修道院に隠されて歴史から消え、フランス革命の際に歴史に再浮上してその後また忘れられる。
先ず断っておくと、これを書く時点で上巻を読んだのみ。物語はフランス革命時と現代(携帯がまだ無い時代の現代)で並行して進む。フランス革命時の修道院財産没収に乗じてチェスセットが狙われていることを知った修道院長は駒を修道士に分けて持たせ、国内外の各地へ分散させる。現代ではアルジェリアに左遷されることになった会社員プログラマーの周囲でチェスに纏わる何かの陰謀めいた事態が動き始め、両時代で関連人物たちを駒と見立てた大きなチェスゲームが進行していることが予感される。ゲームの一駒(ポーン)に過ぎないそれぞれの時代の主人公には(読者にも)全貌を見通すことはできないが、ゲームの性質を知るためにポーンは前進する。上巻はここまで。
この様に少し凝った構成で、チェスと歴史の蘊蓄が少し入り、好みがはっきりと分かれるだろうタイプの小説である。もし面白そうと感じてもらえたなら、中古市場では安い本だし、一読してみる価値があるかもしれない。読み始めて直ぐにもう一段の篩(ふるい)を感じる筈である。描写が何というか、古い(なんせ30年前の本なので)アメリカ通俗小説のノリで、翻訳臭も強い。この辺りが我慢できるかどうか。恐らくこれが売れなかった(と思われる)原因だろう。そして本書の売りである、知的かつ世界の謎の一端を垣間見るような冒険性も、今となっては珍しいものではなくなった。でも僕は、上巻が終わってもこの先の展開がどうなるのかちっとも思い出せないこともあって、かなり楽しんで読んでいる。