B.C.1177

何から始めたものか。以前にも書いたが、youtubeの為末大学をたまに観ている。元スプリンターの為末氏が視聴者の運動に関する疑問に答えるという動画で、動作の注意点や意識の置き方の分かりやすい解説が特徴である。タイトルからこういう話をするんだろうなと予想して開いてみると、違った角度からの解説だったりして、感心することしきり。大体は何となくで済ませる身体感覚の肝を整理して言語化し、素人にも分かるような言葉で説明できる点が素晴らしいと思う。一昔前なら直伝の奥義と言ってもいいレベルの、一人の競技者が生涯をかけて到達できる知識や、より正しくて(?)効率の良い練習法をこの様に容易に知ることができるようになったのである。近ごろの児童の運動能力は二極化していると聞くが、トップレベルの若いスポーツ選手の活躍を見ていると、上のグループのレベルはえらいことになっているんじゃないだろうかと想像する。かつてなら体だけでなく指導者なども含む環境にも恵まれてようやく到達できる山頂に、今や集団が向かう時代なのである。因みに頂とは、力学的に理にかなった身体運用(と判断)の自動化、無意識化だろうと思っている。

知恵が過多、即ち頭でっかちにならないかという点は少し心配ではある。先日書店にて、無料で配っている各出版社の冊子の一つ『白水社の本棚』の記事の一つに、多読よりも再読を勧めるエッセーあった。そこには知識を得る効率性に捕らわれず、気に入った本を何度でも読んで読書と言う行為を楽しみましょうといったことが書かれており(ザっと目を通しただけなのでとても曖昧)、現代社会の知識競争から自由でいられる子供と老人は効率性を忘れて再読を自然と好んで行えるともあった。確かに僕などももう読んでしまった本よりは、新しいことを知りたくていろんな本に手を出すくちであるが、そしてそれらの本は社会的な注目度に関係無く僕の興味の範疇に限られはするのだが、その知識欲の深いところには何某かの競争心が無いとも言えない。競争の道から外れた時、はたして自分はどんな本を読むのか、そもそも本を読むのだろうか、とても知りたくなる。ラノベ辺りだろうか。(何かに捕らわれてやる行為は、僕の経験上あまり長続きしないのである。恐らく心底では楽しくないので。それでかどうか僕が通っているスポーツジムでも、僕位の年代以上で運動を続けている人の多くは、若い頃は運動競技にそれほど打ち込んでこなかった人が多いように思う。僕がそうであるように、競争から自由で居る・居たから、体を動かすことが純粋に楽しめるのだろう。)

頭でっかちと言う話であった。言葉としては頭に入っているけれど身体感覚が伴わない、整理できていない、そんな状態のことである。言葉の拘束力はとても強いので、聞いただけで頭に残り続け、何かを理解した気になり、悪くすればそれに捕らわれることになる。例えば前12世紀に地中海東海岸の都市を襲い、後期青銅器文明を衰退させた「海の民」。高校の世界史にも出てきた名称で、今もこの言葉が使われるかは分からないが、とにかくこの正体不明の集団の侵略によって多くの都市が破壊されたとだけ書いてあったように思う。なるほど、「海の民」が原因なんだな、一件落着。ところが、文明衰退の件も正体不明の「海の民」もそんな簡単な話では済まない、というところで表題書が出てくる。長くなったので続きはまた今度。

最後に、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のAudible版を聴き終わった。後半に幾つか事件が連続して発生する場面は本と同じく退屈だけど、全体としてやっぱり面白い。「ロッキー」の声(そもそも人間には発音できない)もそれ程違和感はなかった。そして最後の場面、子供たちが一斉に「手」を上げるところに目頭が熱くなる。寒風が目に染みたのだろう。風が強いと、眼鏡と目の間に空気の流れができるのだ。映像では恐らくこうはいかない、これは言葉だからこそ伝わる感動であった。昨夜見た夢で、寝床に寝転がっていると飼ってもいないオレンジ色のタランチュラが枕もとに歩いて来るのが目に入り、一瞬ドキッとしながら、こいつは毒の強い種類なのかな、などと暫く眺めていると目が覚めた。『ヘイル・メアリー』の影響だろうが、タランチュラ、良いかもしれない。