言語の力
『ゴジラ-1.0』を観て来た。ゴジラが怖くてなかなか楽しめたけど、日本映画の悪い(と僕が思っている)癖もしっかり出た映画だなあという感想。例えば演技が大げさで定型的なところなど。これが気にならないなら高評価になるかもね。よくよく思い返してみると女性は二人しか出てこなかったが、それぞれが伝統的な女性の役割を担っていて(戦後間もないからね)、素直で力強い魅力を感じた。こうした点が、過剰なポリコレ?に疲弊したアメリカ人に受けたのかもしれないな。
その帰り、久しぶりに書店の漫画コーナーを覗いてみると、『ダンジョン飯』の最終巻が出ていた。途中で飽きて中断していたので、残り5巻を纏めて購入。この年になると漫画本を何冊も抱えてレジに並ぶのは中々居心地が悪い。で、つい先ほど読み終わったところなのだが、いやー楽しかった。読み始めた当初はよくある料理漫画の変種くらいに思っていたが、軌道修正?が上手かったのだろうか、なかなか綺麗な終幕でした。難点があるとすれば、肝心?の料理で、食材となるモンスターが現実に有る何かしらの食材と殆ど変わらないところかな。
表題の『言葉の力』は外国語学習を推奨する内容なので、語学趣味の僕としては読まずには居られなかった訳だが、「いやー楽しかった」とまでは言えない。ただ「参考になった」。本書の前半部分、マルチリンガル(バイリンガルやトリリンガルやそれ以上リンガルを一括りにして)と認知能力の関係を紹介したパートを読んでみて、僕がイメージしたマルチリンガルの言語機能?は以下のような感じになる。
知っている言葉の単語マップが薄い透明なシート状で脳内全体に被さっていて、マップ上では単語同士は何らかの仕方で結びついている。ある単語をインプットすると、マップ上で近隣に結びつく単語も連想されるという具合。マルチリンガルはこのシートをそれぞれの言語ごとに複数枚(バイリンガルなら2枚)持っていることになる。モノリンガルと比べて何が利点かというと、思わぬ連想ができるところ。例えば「タコ」という言葉をインプットすると、日本語話者ならこの単語に釣られて「明石」、「壺」、「タケ(音が近いから)」、「賢い」などがマップ上で点灯する。もし英語も知っているなら、「オクトパス」から「気持ち悪い」、「オクタウィアヌス」など(ここでは仮名表示だけど)も点灯するのが日本語マップの向こうに透けて見えるかもしれない。ここで意識を切り替えて英語マップを前面に出し、「オクタウィアヌス」に焦点を当てると、「皇帝(元首)」や「ウェルギリウス」などが点灯する。こうして、日本語ではなかなか結び付かない「オオカミ」に繋がる。ある言語マップ上では遠くにある単語が、別言語マップに迂回すれば近くなる、ということ。これを大げさに比喩すると、モノリンガルはフラットランド(2次元)の住人で、マルチリンガルになるということは高さの次元を手に入れることに等しいかもしれない。2.1次元くらい? 以上は僕の解釈なので鵜呑みにする前に本書の一読を。
上に挙げた連想力・創造性以外にも、マルチリンガルは複言語環境においては言語マップの切り替えと他マップからの干渉抑制という負荷を脳に課した状態(つまりある種の脳トレをしている状態)になり、モノリンガルの人と比べて幾つかの認知機能面で優れるという結果が得られるらしい。良いことだらけ。あまりにマルチリンガルの利点のみを強調するので少し懐疑的に読みだしてみると、書いてある主張の根拠が少し説得力に欠けるように思う。単に読者対象であろう非専門家に配慮して分かり易くするために簡略的に書いただけかもしれないけど。例えば大学生や院生を対象とした調査の場合、彼らの潜在的知能は全分布全体では上位の方に集中するので、発育段階でのマルチリンガル環境が足枷にならずに利点のみが浮上したのかもしれない。そんな訳で、「参考になった」という感想。
本書がベストセラーになって語学が流行ったら嬉しいのだけれど、日本の一般的な環境ではマルチリンガル環境を作るのも努力がいるし、その利点を享受するまでになる人は余り居ないんじゃないだろうか。そもそも認知機能の向上や認知症予防のために外国語を習得するのは、それ以外に別の目的が無いのであれば、日本ではコストパフォーマンス(嫌な言葉だけど)が悪すぎると思う。ただ、語学はなかなか楽しい趣味だということは言っておきたい。嵌ればコストパフォーマンスなど吹き飛ぶ。僕など読めもしない本を買ってしまうくらいだし。いつかは。因みに、僕は英語等諸々含めても精々~1.8リンガルくらいかなあ。一言語に集中すれば良いんだろうけど、パンもご飯もパスタも美味しそうである。