熟達論
たいへん興味深く読めた。内容の殆どは断片的に既に何処かで聞くか読んでいて、何より僕自身が経験を通してぼんやりと感じていたことではあるが、その事に真剣に向き合ってきた人の、整理されて通りの良い文章で読むと、腸を主体とした管状構造物である人体がなんだかスッキリと真っ直ぐに伸ばされた気分になり、僕も熟達者の一員になれたような気がする、そんな本であった。
本書では熟達の熟達段階を「遊」、「型」、「観」、「心」、「空」の5段階に分けて解説する。「遊」とは遊びのことであり、枠(コントロール)を気にせずに身体の可能性を広く探索する段階である。続く「型」では体で覚えることが目標となる。「観」は僕の理解が正しければ「言語化」の段階のこと。この3段階は身体の成長や技術の発達に合わせて常に行き来しないといけない。「心」では揺らぎない中心が掴めており、「遊」が再び浮上し個性が出る。熟達者の段階である。「空」はいわゆるゾーンに入ったという状態で、少し特殊な段階である。この様な成長過程は何かの競技や習い事をしたことのある人なら体験から理解できるだろうし、経験のない人でもマンガ『拳児』を通して読めば、主人公がこの5段階を行き来しながら成長する様が良く分かると思われる。
僕がまだ何とか続けているキックボクシングのトレーニングに関して腑に落ちることが幾つもあった。例えば気持ち良くパンチを打った次の日などは背中と前腕(フックを打った時は上腕も)が筋肉痛になり、運動量自体は大した事ないのに何でだろうと不思議に思っていたのだけれど、これは多分、普段の運動時に意識して出す以上の力を少ない回数ながら瞬間的に出しているからなのだろう。時々、瞬間的に全力を出すようなトレーニングを課されることがあるのは、全力未満で繰り返す運動とは異なる効果があり、また全力を出すことに慣れていないと脳の方で勝手にブレーキをかけてしまうからだ。
他にも例えば、トレーナー達によって技術的な指示や指摘が異なることがあるのだが、これは彼らは指導者としては恐らく未だ経験が浅い一方で競技者としては熟達して個性もあり、それぞれ言語化の仕方も異なるから。言語化とは上手く行った時の身体感覚や意識の置き所などを思い出せる様に記憶に付箋を貼ることである(コレは僕なりの理解なので、誤解していたらすみません。言葉は感覚を丸々表現できないけど、その感覚を思い出すための呼び水としては役に立つ、という意味)。彼らの意図の芯をこちらが汲み取らないといけないと思う。
本書終盤は丁寧に読むのがアホらしくなり、後書きによるとどうやら著者はゾーンに入っていたそうで、僕もゾーンに入った事にして飛ぶように読み抜けた。
ちょっと興味本位でネット注文した本が『ウガリト語入門』。こんな言語の一般向け教科書が出ている事にびっくりした。ウガリト語とは紀元前12、13世紀ごろに地中海東岸の現ラス・シャムラにあった都市国家ウガリットで使用された、セム語系の言語である。都市国家ではバアル神を主柱に信仰があり、後の旧約聖書に受け継がれる神話が比較的豊富に残るため、聖書ヘブライ語との関連を意識して書かれている。使用文字は何と楔形文字、表音文字として用いられたらしい。導入部分だけ眺めたけれど、それ以上は恐らく読まないと思う。だいぶ根気が必要。都市国家は海の民によって滅亡した。
コレはいつか読みたい(読まねば)と思いつつこの歳までほったらかしてしまった本のうちの一冊。値段的には岩波版の方が半分以下で安いけれど、紙面の読みやすさを重視して西洋古典叢書にした。原文の詩型を保っており、豊富な注釈が同ページに載るので具合が良い。だた、持ち運ぶに大き過ぎ、寝転んで読めないのは難点。