スピノザ 人間の自由の哲学
Audibleで今聞いているのが上にカバー絵を載せた “First Steps”、ヒト族の進化を二足歩行の側面から辿った本であり、記述内容は少し前に取り挙げた『人類の起源』と共通する部分が多い。例によって細かい箇所は聴き逃しており曖昧な理解になるが、(原始的な?)二足歩行の運動原理の表現が秀逸だった。すなわち、二足歩行とは身体の前方への落下を、足を繰り出す事で受け止める動作の連続である、とする。該当箇所を正確に抜き出したいところではあるが、欲しい部分を簡単に引用できないのがAudibleの難点で、その個所は最初の方、たぶん約3時間分くらいの分量の何処かに有る筈だ。
さて、表題の『スピノザ』。彼より少しだけ先人であるデカルトの、「私は考えている、だから私は存在する」という言葉は誰もが聞いたことがある。これは言い換えると、精神(思考作用)としての私は確かであるが、私の意識に写る肉体やこの世界は、今の段階では未だ確かとは言えない、となる。これに続く彼の怪しげな論理は省くとして(僕の手に余るので)、「確かな私」に「確かな世界」を接続する際に神が介入する。意識に写る世界についての私の考えの確かさは神によって保証される、デカルトの神とはこのような存在であった。
スピノザは「私は考えているから存在する」を「私は考えながら存在する」と読み替えた。「思考する私」は私という存在の一側面に過ぎず、私という存在は世界とそのまま(何の介入も要せず)接続する、という解釈である。そこから、僕がよく理解していないので説明できない段階を踏んで、「存在するものは全て神の内にある」となる。この世界に存在するものは全て、唯一の実態である神の様態(有り様、形態、モードという意味合いの用語)なのである。例えば猫は神の様態の一つ、「猫モードの神」であり、そう言われると近視も手伝ってネコが神に見えてくる。
この世界は神の様態(モード)である。ここから話は面白い方向に展開する。事物が今現在あるように存在するのは神の力の表現として必然的だったということ。つまり、「ものごとは、それが生み出されたのとは別のどのような仕方でも順序でも、神から生み出され得なかった」。そうすると、僕が昨日迷った末にカレーではなくてカツ丼を食べたのも必然だったということになる。僕にはそもそも自由意志など無く、カツ丼が僕の体を通過しつつある事実は過去からの因果連鎖に連なる必然的結果に過ぎず、未来の事象も同様に全て決定済みなのだろうか。
本書によれば、スピノザの哲学はその根幹において「決定的未来」や「運命」を語る必要のない仕組みになっている。「神はあらかじめ確定された個物を一挙に品揃えして蓄えているいわば無時間的な倉庫のようなものではない」「何が可能であったのかは産出してみないと神にも分からない、逆ではないのである」。してみると、スピノザの神とはこの世界の自然そのもの、即ち物理法則のような存在であり、たとえ法則が決定論的に分かっていたとしても「産出してみないと分からない」と言うのはカオス理論(複雑系の現象)を思い起こさせる(間違っていたらすみません)。時代を先取りし過ぎてはいないだろうか。一応断っておくと、ニュートンが活躍するのはもう少し後になる。この宗教観(?)から、スピノザが生きた17世紀のオランダで彼は無神論者・異端と危険視され、主著『エチカ』は生前に出版されることは無かった。
話題はさらに自由意志の考察へと進むのだが、長くなるので紹介はこの辺まで。僕は読むかどうか分からないけれど、取り敢えず『エチカ』(中公クラシックス版)を購入した。