〈イスラーム世界〉とは何か

このサイトを見てくれている人はお気付きだと思うが、僕が紹介する本の多くはちくま学芸文庫か講談社学術文庫から出版されたものである。この二文庫は、近年の出版過多で積り重なった本の累積層に埋もれて絶版となってしまった良書を、逍遥者(雑読者)の目に届く上層に掘り起こしてくれるという意味合いで、僕は大変有り難く思っている。元が新書であったり選書であったりで一般向きのものも多い。僕のような摘み食いが好きな人間には丁度良い硬さと深さである。もちろん、僕には難しい本もある。『七十人訳ギリシア語聖書 モーセ五書』の様にちょっと手を伸ばせない内容とボリューム(文庫一冊で何と1200ページある)のものや、ヘーゲルの『精神の現象学』のように、例え注意深く読んだとしても理解が困難なものもある。これらにしても、何時かは読み通す機会があるかもという期待を抱かせる。この二文庫の新刊が書店に並ぶ毎月10日前後を僕は楽しみにしており、それぞれが三、四冊を新刊する中で大抵一、二冊は読んでみたいものが有る。或いは無理にでも興味を捻り出すので、ここ数年間、この二文庫の新刊を一冊も買わなかったという月は多分ない、と思う。買ったものを最後まで読むとは限らないのだが。

表題書も講談社学術文庫の今月の新刊の一冊である。「イスラーム世界」という言葉から、僕が漠然としか知らないイスラムの文化や歴史を一般向けに紹介した本だろうと思い込み、内容を確認せずに飛びついたその中身は僕の想像とは全く異なっていた。本書のテーマを端的にいうなら、「イスラーム世界」という言葉が指し示すものは何か、この一点に尽きる。僕たち日本人、そして恐らく多くの西洋人がせいぜい曖昧にしか理解していないその言葉がいつ頃から文献に現れ、どの様な意味合いで使用され、その意味合いがどう変化してきたかを、多くの文献を追跡して調べ上げた本であった。以下に少しだけ要点をまとめてみる。

「イスラーム世界」とは19世紀ヨーロッパで創造された空間概念であった。この言葉が創られた時代、ヨーロッパでは国民国家が形成され、同時に近代歴史学が誕生した時代でもあった。各国の歴史が次々と記されていく中で、ヨーロッパと二項対立関係にあった「イスラーム世界」を、それが空間的に実在するとして、その歴史を発見して叙述することが必要とされた時代だった。この名前を持つ空間が想定され、その枠組みに従って空間の特徴が発見され、歴史が書かれた。この創造された空間と歴史の結びつきには相容れない点が存在する。その相違は本書の核心(だいぶ書いてしまった気がするものの)の一つに触れるのでここでは割愛する。ただ一つ付け加えるなら、そのズレ故に「イスラーム世界」という言葉が端的に何を指し示すのか僕たちには分かり難くなっているのである。そして著者は、この19世紀的世界認識に基づく設定は、現代世界の成り立ちを理解するための世界史にはもはや不要であると提言する。

テーマがこれ程までに限定された本でありながら、興味深く読むことができた(最後の章は少し飽きたのだが)のは、見通し良く整理された著述の為せる技だと思う。一流の学者らしく多くの文献に言及する点も信頼できる。同著者の著作で、『東インド会社とアジアの海』が同じ講談社学術文庫から出ており、こちらは話題も広く面白いのでタイトルだけ紹介しておく。