1177 B.C. 続き
地中海東部、エジプト、近東地域では青銅器時代が2千年近く続いた。前3000年前から前1200年前までである。その時代の終焉において、何世紀もかけて発展してきた強大な帝国や数多くの小国が連鎖的に滅亡し、同時に広大な地域に張り巡らされたグローバルシステムも失われた。その滅亡の後に「暗黒時代」と呼ばれる移行の時代が訪れたが、そのアオリをモロに喰らったギリシャをはじめとする地域では新たな文明が再生するまで数百年を待たねばならなかった。場所によっては後に二度と回復することなく衰退したままである。これほどの喪失を世界が再び経験するのは、ローマ帝国が滅亡した時、約1500年以上も後のこととされる。何世紀も安定して栄えた国際的システムがなぜ突然崩壊したのか、この古代史上の巨大な問いに本書は一つの導線を与える。
地中海周辺地域の青銅器時代の終焉に起こった一連の出来事について、客観的事実を要約したものが本書の最後の方にあったので書き出すと、
1.ミュケナイ・ミノア・ヒッタイト・エジプト・バビロニア・キュプロスなど数多くの独自文明が前15世紀から前13世紀にかけて繁栄した。これらは国際交易路を通じて絶えず相互に関係を持っていた。これらは本書の約三分の一を費やして語られる。
2.前1177年かその前後に多くの都市が破壊され、当時の人々が営んでいた後期青銅器時代の文明と生活は終わりを告げた。続く約三分の一のお話である。
3.これまで反論の余地のない証拠は提示されておらず、誰・何がこの崩壊を引き起こしたのかはわかっていない。
考えられる要因として挙げられるのが次の五要素。ただし、どれも単独ではこれほどの崩壊をひき越すことはありそうにないとされる。
1.いくつかの顕著な地震が発生した(という証拠が考古学調査から見つかる)。
2.干魃や気候変動による飢餓の記録がある。
3.いくつかの地域では内乱が有った。
4.エーゲ海地域・小アジア西部・キュプロスでは侵入者が押し寄せたという考古学的証拠が見つかっている。
5.国際交易ルートは一時期明らかに損害を受けている。
本書ではこれらの要素が連鎖的に作用し合うことでドミノ効果を生み、システム崩壊の「パーフェクト・ストーム」を引き起こした可能性を指摘する。当時のグローバル化された「世界」に於いては、たった一つの社会の崩壊・不安定化が国際交易や政治的に繋がる他社会の破滅に繋がることもあり得る。本書では更に複雑性理論に目を向ける。
複雑性理論とは相互作用するオブジェクトの集合に生じる現象の説明を目的とする。僕自身の関心事から例を挙げると、地震の発生(曖昧ではあるが、イメージとしては地殻内に無数に入る亀裂(強度の弱い箇所)の応力による崩壊と、崩壊による応力分配の連鎖過程)や生態系が複雑な系に入る。そしてミノア・ヒッタイトなどそれ自体で独立しつつ相互に依存し合う文明が結びつく当時のグローバル化された世界も複雑な系である。複雑な系では「どんな予想外な、極端な現象」も、十分な時間が経てば起こりうるのが特徴である。株式市場はいつかなんらかの大暴落が起こり、交通システムはいつか何らかの渋滞が発生する。そして「いつか」は分かっていても、「いつ」かは基本的には分からない。
更に、「システムが複雑になり、その構成要素間の相互作用の程度が高まるにつれ、システム全体を安定に保つことが難しくなる」という。数世紀にわたって発展し、拡大したグローバル青銅器文明世界は複雑になり過ぎたのだ。その崩壊はたぶん人類の歴史において常に起こっている崩壊の、例外的に大きなものだったのだろう。歴史上、このグローバル青銅器文明世界とシステム的に比較できるのが18世紀以降高度にグローバル化した現代社会であるという。歴史的に考えて、この社会もいつかは崩壊するのである。それが「いつ」かは誰にも分からないが、この社会が盤石でないのは昨今のニュースを見れば分かることである。さて、巨大帝国が相互作用し合う青銅器文明が崩壊したのち、文明の再創生の時代を迎え、僕たちが良く知る都市国家群で形成されるギリシャ文明もここから立ち上がって来る。文字記録に欠けるために「暗黒時代」と呼ばれる数世紀は、実際はそれほど暗くはなかったのではないだろうか。
ここまで本書を掻い摘んできて、「海の民」とは正体不明の特定の民族(そうであって欲しいという気持ちはあるのだが)である可能性は低いと想像はつくだろう。彼らはおそらく、一連のシステム崩壊過程において移住を余儀なくされた人々、あるいは権力の衰退や混乱に乗じて略奪に走った暴徒の総称であろうと思われる。誰あるいは何がこの大崩壊の引き金になったのかは端的に指摘できるような対象ではなく、現実はもっとずっとゴチャゴチャしている。すごく面白い。古代史に興味があるなら本書は一押しである。因みにaudible版も出ていて、早速聴き始めた。