続ゴガク百景

ゴガクは時間がかかる。真っ当な語学者(ゴガク・シャ)が目指すであろう達人の域に到達するには数年が必要であろうし、僕のように体験入門で満足するだけでも、これは言語に依るが、少なくともひと月かかる。年を取れば記憶力も頭の巡りも衰える。けっして短気になってはいけない。いま現在嵌っている言語(語学書)に相対し、脇見をしないことが肝要だ。それでもなお、書店の語学書コーナーに立ち寄ったり、色んな物を読んだりすると、幾つかの言語(語学書)への欲望が沸いてくる。そうして溢れ出てしまった言語(語学書)たちが以下だ。

語学書界の小勢力言語では、そもそも日本語で書籍が出ているだけでも有難いとも言える。頼りとなるのが語学書出版界の古強者:大学書林と、現在のエース:白水社のニューエクスプレスシリーズであろうか。僕はだいたい、この2出版社を調べてから他所を掘っていく。より深堀したい場合は『世界のことば・辞書の辞典』(ヨーロッパ編、アジア編)を開けば、外国語で書かれた定評ある語学書が見つかる。だたしそれらは容易に手に入るとは限らない(海外の本は絶版が特に多い)。さらに本の入手状況に関して、白水社(それと大学の出版部)のものはあまり心配ないのだが、大学書林や他の多くの出版社のものは、在庫があるときに買っておかないと後悔することになる。大学書林の『ノルウェー語四週間』などは、以前にAmazonで古本を探したところ、定価約九千円が三万円で出品されており、値下がりを待っていたら五万円に値上がり、遂には取り扱い不可になった。

ノルウェー語のきっかけは本当に「何となく」で、北欧諸語の中ではアイスランド語に次いで語学書(日本語の)が少ない。ノルウェーでは、長年デンマークの支配を受けた影響で、数世紀にわたってデンマーク語に近い言語が使用された。現在主流の言語、「ブークモール」(本の言語)、はこの直系になる。一方で民族意識の高揚と共に、デンマーク支配以前の言語を取り戻そうという動きが起こり、「ニーノシュク」が復元?される。後者は北欧語の古い形態を今に残すアイスランド語に近いらしい。これら2言語ともにノルウェーの公用語として使用されるが、日本語の語学書を含めた多くの教材は「ブークモール」を取り扱う。『ノルウェー語のしくみ』は大変楽に読めた。ノルウェー語は文法が単純で、語彙も英語やドイツ語に近いものが多く、取り付きやすい。音声的にもデンマーク語より(日本人にとって)発音しやすく、強弱アクセントと高低アクセント(声調)の両方を持つ。ニューエクスプレスの後は英語の”Norwegian: A Comprehensive Grammar”などに行くしかないが、そこまでしてノルウェー語を掘り下げたい人がどれだけいるか。

ジョージア(グルジア)のことは殆ど知らない。ただその言語はちょっと有名だ。能格言語である。インド・ヨーロピアン語族ではなく、独自のコーカサス諸語(その下に3つの語族)というグループに属する。限られた地域での多様性は、その言語が閉鎖的で「古い」ことを示唆する。バスク語との関連を指摘する説もある。かつてギリシャ・ローマ人により、コーカサス地方は「イベリア」と呼ばれていたそうだ。

独自のグルジア文字を使う。くるくると可愛らしい文字だが、大文字・小文字の区別が無く、文章になると締まりなく見える。ラテン文字とは全く異なるので、脳が混乱しない分キリル文字よりも楽に馴染めた。ただし、文法が複雑で、発音も難しい。喉の奥の方を使う発声を多用する。総合的にみて、僕がこれまで手を付けた言語の中では最難関であった。『ニューエクスプレス・グルジア語』は日本語で読める語学書としてお勧め(他に古いものが2,3有るだけ)。全20章構成なのだが、第10章あたりから難易度が途端に上がり、サラッとは読めなくなってくる。僕はそれでもサラッと読み通し、よく分からないままグルジア語を中断した。後に”Georgian: A Reading Grammar”に手を出そうか迷っていたら、中古でしか手に入らなくなってしまった。音声に関して、ウェブサイトの”Learn 50 languages for free”が一押し。

スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語は兄弟の様なものだ。『北欧4か国旅行会話: フィンランド語・スウェーデン語・ノルウェー語・デンマーク語』をペラペラっとめくれば、それらがどれだけ似ているかが分かる。スウェーデン語はノルウェー語と同様に取り付きやすく、音声的にも似ていて、あまり慌てて着手する必要を感じない。なので手に入るうちに語学書だけ買って、ほんの一寸眺めただけ。上の単語集とその姉妹書、『スウェーデン語の基本 入門から中級まで』が良くできている。同シリーズの『チェコ語の基本 入門から中級の入り口まで』も同様に良い本だ(と思う)が、こっちはロシア語と混じるので未だ手を出せないでいる。

自身の関心事に於いて出現度が高いのは、此れまでのところヨーロッパ方面の事物である。僕がアジアの言語に手を出してこなかった理由は色々あるが、結局はそっち方面の知識と、その結果として興味に乏しいからだろうと思う。で、新規開拓。インドネシア語は(超)簡単という話を聞いているので見送った。複数言語が混在するインドネシア国のリンガ・フランカ(共通語、交易語?)だ。タイ語やベトナム語は声調が難しそうで、ならばとビルマ語(ミャンマー語)に手を出した。気持ちよく口ずさむことのできる言語が捗るのだ。ミャンマーの方がよく知らないという理由もある。語学書は、先述の三言語と比べると数が格段に減る。

ビルマ語はシナ・チベット語族なので中国語の近縁であり、タイ・カダイ語族のタイ語やオーストロアジア語族のベトナム語、インドネシア語とは系統が異なる。ただし語彙的には、中国の影響を大量に受けたベトナム語の方が中国語に近く、ビルマ語は隣接するタイ語により近いのではないかと思う(僕はこの辺の言語を殆ど知らないから、ただの予想)。独特のビルマ文字の歴史は意外と古く、11世紀まで遡る。紙の代用であった葉が破れないように丸みを帯びた形状になったらしい。

この魅力的な文字にちょっと触れただけで、僕はビルマ語を中断した。フィンランド語を始めてしまったから。そのうちに再訪したいと思っている。上に挙げた『食べて旅するミャンマー語』は食に関する記述や写真が多く、ミャンマーの食文化を知るうえで良い語学書である。ビルマ語が分からなくても、眺めるだけでも楽しめる。

フィンランド語の語学書は他項で紹介しので、ここでは少しカブいたものを。『ムーミン谷の絵辞典』はイラストが楽しい図鑑で、それぞれの名称がフィンランド語、英語、日本語で並記される。また英文、日本語文の解説が入る。ここで苦情。英文は不要であった。解説はフィンランド語か、せめて原著の言語であるスウェーデン語で書いてほしい。サイズの大きな本なので持ち歩きには向かない。

これを書く時点で、僕はフィンランド語とバスク語の語学書を少しづつ読んでいる。バスク語の語学書は日本語であまり選択肢が無いので、結局は『ニューエクスプレス・バスク語』になる。『グルジア語』と同様、第10章を超えて難易度が上昇する。バスク語はいわゆる日常言語であったので、「日常」を超える物事や概念は他言語から借用するしかない。現在は語彙の約7割が他言語(ロマンス語)由来という。ニューエクスプレスを読んでも、スペイン語とそっくりな単語が結構な割合で出て来て、その点は馴染みやすいと言える。また独自の書記法を持たなかったので、文字もラテン文字をそのまま使う。バスク語もニューエクスプレスの先は英語かスペイン語の本に行く他ないので少しハードルが高い。が、邦文バスク関連書は探せば結構出てくる。上の『バスク語初文集』は16世紀にバスク語で初めて印刷された、バスク人司祭の手による詩集である。たいして面白いものではないが、興味深さは出色なので挙げてみた。

以下、僕が購入した他に代わるものが無い語学書を三冊紹介する。ほとんど読んでいないので、語学書自体の感想は書けない。新書籍が買えるうちにと思って入手した。
1.『ウェールズ語の基礎 入門から会話まで』
ウェールズ語はケルト語派の数少ない生き残りであり、英国ウェールズ地方で使用される。トールキンが作った架空言語の内の一つ「シンダリン」のモデルとしても知られる。音声の変化が厄介な様子。 ウェールズ語の語学書は、日本語で他に無いと思う。

2.『〈茨の国〉の言語:マダガスカル南部タンルイ語の記述』。
マダガスカルの言語は、オーストロネシア語族(主にポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの言語)に属する。その祖語を遡ると、台湾にたどり着く(そうだ)。更に遡り、1万5千年以上前に中国から拡散したという説もある。マダガスカルの南部タンルイは、有棘植物に覆われる、自然環境の厳しい地域であり、ここの言語の記述は世界初の試みであるらしい。

3.『古英語の世界へ―モルドンの戦い』。
10世紀末、イングランド、モルドンの領主が侵略するヴァイキングを迎え撃ち、敗北した戦いの記録(詩)。古英語の傑作と言われる。モルドンの戦いに関して日本語で書かれた一般書は、ちょっと探したところこれ以外に見つからなかった。古英語とはゲルマン人の移入からだいたい11世紀、ノルマンコンクエスト後にフランス語が大量流入する以前の英語で、ヴァイキングの活動によって北欧諸語から強い影響を受ける。トールキンの専門がこれ。

アイヌ語がちょっと気になって居る。アイヌ語でウサギは本来イセポと言うのだが、沖に立つ白波を「ウサギが飛ぶ」と言って海上でイセポは忌み言葉であったため、柴の意味のカイクマと言い換えたらしい。こうした、言葉の端々に風習や文化の一端が垣間見えると嬉しくなる。例えばロシア語で熊をミドヴィエド(ィ)と言うが、これは「蜂蜜を食べる者」を意味する。熊は畏怖の対象なので本名を呼ぶことは避けられたまま、本名は今に伝わっていない。或いはリトアニア語。リトアニア人とミツバチの結びつきは強い。リトアニア語では人の死と動物の死を異なる言葉で表すのだが、ミツバチには人に使う「死」が用いられる。

いい加減この項を締めなければならないが、言語界の巨大な山塊の一つ、アラビア語を忘れていた。いわゆるアラビア語は各地の話し言葉(アーンミーヤ)それぞれが孤立した独立峰を成し、その中央にコーランの言葉である標準語(フスハー)が聖なる主峰として聳え立つ(これを纏めて僕はアラビア語山脈と呼んでいる)。アーンミーヤの構成員、エジプト方言やレバノン方言などは、「方言」とは言うもののそれぞれがハッキリと別の言語である。その急峻な威容を前にして、取り掛かるには相応の覚悟が必要であり、僕などは麓から眺めるだけで満足している。

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