ガソリン生活

伊坂幸太郎は好きな作家である。つまみ食い程度にしか読んでいないし、ここ2・3年、ひょっとしたら4・5年間はご無沙汰していたかもしれない。エンジンのピストンが激しく上下するような爆発的面白さは個人的には感じないものの、ジワジワと染み入るような気持ちよさがある。多分、彼の描く世界には根本的に悪意がなく、雰囲気が暢気で、表現の端々に気が利いて遊び心もあり、一見無関係に見える多様な要素を最終的に繋げる頭の良さ(気転が利くという意味での)に感心するからだ。つまり、彼の作品は僕の趣味と波長がとても合う。それに(それ故に?)彼の書くものはオシャレであると思う。彼の作品は映画化されたものも好きで、全て観た訳ではないのでアレだが、『アヒルと鴨のコインロッカー』『重力ピエロ』や『フィッシュストーリー』、そして比較的最近の『アイネクライネナハトムジーク』などはしみじみと良い。
さて、本作は僕が今まで読んだ彼の作品の中で最も気に入ったお話の一つである。主人公はとある一般家庭の自家用車「緑デミ(緑色のデミオ)」であり、この物語は基本的に彼?が他の車と交わす会話と、彼?の内部か周囲で人間たちが取る行動とによって進行する。即ち、読者が知ることができるのは「緑デミ」の周辺で起こった出来事のみ(最終章は視点が彼?から外れる)。物語の展開はあくまで自然なので、物語も中盤に差し掛かる迄、僕はこの構造に気が付かなかった。気が付かない理由はもう一つあって、著者の本を何冊か読んだことのある人はお分かりだと思うが、彼の物語は基本的に、一見無関係に思える要素が関連し合う。その繋がりの手掛かりを逃すまいとして意識が逸れた訳である。現実のあらゆる出来事ももちろん相互に繋がっていて、他から完全に独立して出来する出来事など存在しない。この世の大部分は一人の人間の視点からは見えないので、世界は「偶然」と「無関係」に溢れているように思える。身近で起こる出来事同士は少し調べれば案外近くで繋がるものなのかもしれない。
本作には二つの「本歌」が在る。一つ目はダイアナ妃のトンネル事故であり、それに纏わる都市伝説?の中の一説を本作は下敷きにしている(と思う)。もう一つは『吾輩は猫である』。生き物ですらない「緑デミ」の一人称視点で物語が進行する構造なので明白だとは思うが、実のところ僕はこの点については自信が無い。『吾輩は…』を読んでいないからだ。明治から昭和初期にかけての著名な小説は童話の類を除いて僕は殆ど読んでいない。これは単に此れ迄に僕の興味が沸かなかっただけなので、この先の楽しみということにしている。来世まで読まない可能性は結構高いとも思っているのだけれども。
作中では語り手の車らしい表現が沢山出てくる。例えば、「いわゆる「ワイパー動くよ」という感覚」「ワイパーが動いてしまうほど興奮した」「ワイパー動くだろ?」「ワイパーが動くような?」「ワイパー動くよな、それは」。こういう遊び心ある表現を見ると僕もワイパーが動いてしまいそうになる。

伊坂幸太郎を急に読みたくなった理由は、二つ。先ずは最新作の『逆ソクラテス』が今年の本屋大賞ノミネート作品にランク付けされていたから。もう一つの理由は『マリアビートル』がハリウッドで映画化されると何かの記事で読んだこと。これはKindle版で以前に購入していたので、表題作を読む前に再読した。東京発盛岡行きの新幹線内で暗殺者たちが争うというお話で、暢気さは表題作に劣るがオシャレで気が利いている点は変わらない。内容は殆ど忘れており、思いのほか楽しかったのでもう一冊、となった。映画の方は舞台が東京発京都行きの新幹線に変わり、ブラド・ピットが主人公「七尾」を演じるそうだ。多分観に行く。